スキップしてメイン コンテンツに移動

日記606


前の記事のつづきをひとつ。

「残酷なもので5・3」というお題に対してクソ正直に残酷なものを考えなくともよかった。と気がついたのでメモ。「残酷なもの」と解釈する枠組みがあらかじめ定められているのだから、すこしだけ寄せれば十分。ど真ん中で残酷なものは、よほど正確にど真ん中を突かない限り凡庸に堕してしまう。

友人の回答「思い出が・ひとつ」は、お題の解釈が有機的に機能する点でとても優れている。つまり、受け手に開かれている。「顔面が・破裂」は解釈の余地なく残酷だけれど「思い出が・ひとつ」は残酷な枠組みにあてはめるとイメージが変わり、豊穣な意味の沃野が拓ける。

べつの例を挙げれば「戦争が・終わる」。安直な現代のイメージでは良いこととされる。しかし「残酷」の枠組みで捉えると、アクチュアルな意味を帯びると思う。映画化もされた、こうの史代の漫画『この世界の片隅に』は「戦争が終わる」の残酷さを描いていた。玉音放送を聞いた主人公すずさんの反応がわかりやすい。


最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?
いまここへまだ五人も居るのに!
まだ左手も両足も残っとるのに!!
うちはこんなん納得出来ん!!!


漫画下巻からの引用ですがこのページを開くと自動的に泣いてしまいます。全自動で鼻がぐずぐずいう。こんなに即席で泣けるじぶんがいやだなあ。安い涙だ。次のモノローグはさらにいけない。「戦争が終わる」の残酷な表現。


飛び去ってゆく
この国から正義が飛び去ってゆく


ひとつの価値観の終わり。
若く、素朴な人間には特に解し難い現実があったのだろうと想像する。

 
……………ああ
暴力で従えとったいう事か
じゃけえ暴力に屈するいう事かね
それがこの国の正体かね

うちも知らんまま死にたかったなあ……


こんなに残酷なことはない。戦争が終わった。日本は敗戦した。知らないままのほうがよかった。どうしたらいいのかわからない。たとえばこのように解釈の枠組みによって、「戦争が終わる」の平和なイメージも変わる。

だから、「残酷なもの」と言われてクソ正直に残酷なものを連想するわたしはひどい単細胞のクソでした。クソはよくないか。「真正直な人柄がうかがえる」と思っていただければよい。「顔面が・破裂」も、それほどきらいではない。「そのまんまやないかーい」とツッコミを入れてくれると救われる。

「そのまんま」はときに笑いになる。「見たまま」を取り出し、意味を剥いで無にする発想もいい。場合によっては。じぶんはどちらかというと意味を無くしてゆくほうへと向いてしまう。そっち寄り特性の脳味噌。人間なんか、ただの肉塊と思っているフシもある。モノとしてのわたし。存在の下限を考える。「自分マトリクス」に書いた「無」という直感は当たっていたのか。てめえで書いてんだからそうなんだろう。

たとえば「田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死ぬ」という、この発想です。固有名詞がまったくの無意味になる一文。そこが可笑しい。意味を無に帰す暴力的な表現が好き。

米光一成さんの2時間の体験講義は、このほかにも考える材料をたくさんいただけた。わたしだって、ひとりで長い時間をかければこのくらいの思考は働く。誰だ「ひどい単細胞のクソ」呼ばわりしたやつは。ぷんぷん。



9月2日(日)


音楽ライブ。場所は池袋Adm。出演2組。四弦独唱(ベース弾き語り)の燐-Lin-さん。と、もらすとしずむのツーマン。お昼の12時過ぎから。

ステージが始まる前に、ジン・トニックを飲んで、ふるまいの麻婆豆腐をもらう。おいしい。ちょっとクセのある香りは紹興酒かーとあとでレシピを知って気づく。厚かましく塩おにぎりもいただく。ありがてえありがてえ。おにぎりがいくつも目の前に並んでいると変にうれしい。

麻婆豆腐とおにぎりの前座であたたまる会場。
燐さんのステージが始まる。




映像と演奏。赤いベース、赤い金魚をあしらった衣裳。歌声。なんかやばいくらい完成されてる!と思っていたら、MCで「脳は3歳でだいたい完成する」とおっしゃっていました。たぶんこのステージも3歳のうちに脳内では完成されていたのです。3歳からこういう生き物。いうなれば生物学的運命論。

ライブ後に御本人が物販をされていたので、CDを買いながら脳の話を蒸し返すと、「脳は3歳でだいたい出来上がるそうなんですけど、そのあとも生きてて色んなことがあるからラッキーじゃないですか!!」とすばらしい続きをお話いただき、感銘を受けました。めっちゃラッキーです。

たとえわたしが完成しても、この世界は完成しない。じぶんのことを世界に問うても終わりしか見えない。でも世界のことをじぶんに問えば終わらない。それは幸運。ということをおっしゃっていたのだと勝手に思います。知らないけれど。V.E.フランクルのことばを借りれば「あなたが人生によって問いかけられているのです」と、このことです。たぶん。イイハナシダナー。

燐さんには、おそらくライブを観た誰もが感じるであろう、パフォーマンスのクールさと愉快なMCのギャップがあります。表面上はギャップに見える。でも話の内容を聞くと内向性がうかがえて彼女の創作ともリンクするように思う。MCは、セルフツッコミが激しかった印象。外からのツッコミを求めることも。内側へとことばを仕向ける自省的な気質があるように推測します。これも勝手に。

CDに入っていた曲「No title」の歌詞は、終わりにしたいじぶんのことを世界に問う。もうこれ以上、泣きたくなる日はいらない。でも日々はどこまでも終わってくれない。止まらない落下。ぜんぜんラッキーじゃない。わたしは?と問いつづける。収まりの悪い身体性について語っているとも思う。





どこまで落ちたら私は止まってくれる?
どこまで落ちたら穏やかな日はおとずれる?
暗い暗い部屋の中で 深いところに問いかける


語られる「カラダ」は女性的な身体の表象だと思うけれど、この曲の気分がけっこう肌に合う。まだ透明でいられるって、どこかで信じていたんだな。透明ではなかった。人前だとわりと笑っているけれど、ひとりになると暗いことばかり思う。




素敵でした。
赤が映える。




もらすとしずむ。

音楽ライブはそんなに行く方ではないけれど、知らないうちにこのバンドのライブは何度も行く。なぜだろう。単純に「かっこいいから」みたいな理由とは外れた部分でその場に行く。メンバーが変わっても。3歳から脳がわたしの知らないところで決めていた。運命論的なやつかもしれない。理由はなんでもいい。こんかいは「麻婆豆腐が食べたくて」ということにしておこう。おにぎりもいただけてめっちゃラッキーじゃないですか。




おなじ位置で突っ立ってんだから無理もないけれど、4人を写真にちゃんと収めるのがむずかしかった。おなじ角度で単調にもなる。しかしあたりまえですがカメラマンではないから、過ぎたマネはしない。客としてたのしむ。激しくて、かつダウナーな音楽です。飛ばない。低い音が重く地上にただよう。





鎮めよう鎮めようとして重々しくなる。音楽的な語彙の感想じゃなくて恥ずかしい気もしますが、重力を信頼してどこにも向かわない、地上から遠くをまなざして歌を刻む。そんな音楽。いなくなったひとたちへ。「Drecome2」の英語の音声はチャップリンの『独裁者』から、だそうです。





はじめ「麻婆豆腐をふるまう」と聞いて、みんなでわいわいなノリを想像してしまい一歩だけ引く極私的なめんどくさい心理もありましたが、いい空間でした!たとえば集団笑顔の「みんなでバーベキューめっちゃ楽しい!」みたいな写真って、性根がひん曲がっているせいか見るに耐えなくて。

はっきりと「みんな」の輪に入りたくない心情がある。気持ち悪い。わたしもバーベキュー自体は楽しいと思う。でもわたしの楽しさとあなたの楽しさはちがう。自律的な人間関係がいい。でないと生きた感覚が塗り潰されて死ぬ。ああちくしょうめんどくせえ。こういうのよくないな、とも思う。

だけど輪に入ったら入ったでそれなりに楽しめてしまう気もする。そんな単純さもある。単純な自覚があるからこそ距離をとりたいのか。なんでもいいか。こだわらずにいたい。




時間、について触れたくなる。もらすとしずむのライブはタイマーでカウントが刻まれる。一秒一秒。池袋までの電車の中で読んでいた本に、「生は連続しているが、知覚は不連続」みたいな記述があった。連続的な生の時間が、不連続な音に切り刻まれる。ライブハウスの時間。そんなことを思う。

間歇的に重い音がやってくる曲には「心情の間歇」などと言いたくなる。ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(共和国)を読んでいた。翻訳、岩津航。行をたどるたび、ぐっときてしょうがない本です。借りて読んでいます。これは買いたいと思う。その時々に読んでいる本に影響されやすい。書物がフィルターとなって目玉に貼りつく。

ライブが終わって外に出ると思わず「明るい!」とつぶやいてしまう。思わず口からツイートしてしまいました。まだお昼過ぎでした。精神と時の部屋にいた。お昼の時間帯もおもしろい。文字通り夜はこれから。得した気になる。




9月5日(水)


夜中までDOMMUNEで中原昌也の特集を聞いていました。中原さんは、会話を「そうっすね」「どうでもいいっす」「おぼえてない」「わかんないっす」「いぇー」「安倍はクソ」でだいたい通すところが素敵。たまに罵倒の表現が汚くて豊かでおもしろい。やる気のかけらも感じられないトークにあこがれる。『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出文庫)の解説に柳下毅一郎さんが「中原昌也は才能のすべてを注ぎこみ、努力のかぎりをつくして手を抜いているのだ」と書いていたけれど、どうやっても最初から単にやる気がないようにしか見えない。「無意味だね」という態度。それがおもしろいんだから、それでいいんじゃないすか。「ちゃらんぽらんなように見えるけど、そのために裏では頑張ってんだ」みたいなロジックはいらない。逆説のおふざけとしてもいらない。果てしなくどうでもいい投げやりな態度が好きなんだ。果てしなく。どうでもいいよ。わかんないよ。死んでも何も残さない。




コメント