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日記608



かわいいやつがいました。
死んでいるみたい。きれいに。
死因はなんだろう。



こちらのほうがぼんやりマイルドでよいか。こういう写真は嫌がる向きもおありでしょう。それはもちろん勘定にいれたうえで載せます。誰が見ても見なくてもいい。世界に開かれたワールドワイドウェブだけれど、ごく個人的なアドレスでもある。閲覧者も個人的な視線で眺めると思う。

老若男女だれしもに開かれていてもつまらない。公的であり私的でもあるところがいい。ネット上でこのバランス感覚をいちじるしく欠くと人間関係がこじれる。そんな光景はよく見かけます。少し崩す、くらいのバランスがおもしろくていい塩梅なのだと思う。カジュアルな装い。公私をおしゃれに着こなす。

深く個人的な内容が普遍に届くこともある。表面的な「公」の意識は時々のモードに過ぎない。時代によっていくらでも変化しうる。流行り廃り。炎上を避けたいのなら、いまどきのモードを掴む感性が必要だと思う。あるいは、あえて炎上を狙うことも同様に。

このブログに狙いはない。「こうやればこう反応が返ってくる」、そんな機械的な予測のもとにある表現は好きではない。そもそも脳味噌がカニ味噌とおなじ組成なので狙いも予測もつかない。いい出汁になるのみ。「よくわからないけど、わたしにはこう思えて仕方がない。あなたはどうですか」という、おずおずとした態度でいたい。

わたしには、ちいさな爬虫類の死骸がかわいいと思えて仕方がない。そして、すこしかなしい。それがいとしい。こんなところでどうしたんだろう。ひらべったくて。さわってもうごかなかった。土に埋めました。

ネットに限らず、人間の生活は私的であり公的でもある。全体から細部へ、細部から全体へ。放縦で複雑に絡まる網目の流れの上に人間が浮かぶ。現在時のモードをできる限り参照しつつ、時間軸も広く考える。なるべく。ずいぶんと殊勝なこころがけですこと。


ぼくがいまここにいること。きみがいまそこにいること。

知らない人の日々の生活を深く知ること。
プライベートとパブリックの間を軽く飛び越えること。
自分と他人の境界をあいまいにすること。
それぞれの人生が尊く置換不可能であることをあえて知ること。
理解不能な他人を愛すること。
不用意で軽率な行為、それを楽しむこと。


メガ日記の目的より。

要するにこの態度です。これも前に引いた気がするなあ。なにをやっても既視感があります。なんだろう。新鮮味のない日々。おんなじことばっか言って。そろそろ更新しないといけない。顔面からアップデートしたい。哺乳綱から脱したい。さいきんあまり真剣に本を読み通せていない。ナナメ読みばかり。とりあえず、インターネットは理解不能なクソに愛をそそぐクソな場所だってことで。よろしくです。ははは。


料理はまいにちしているので、わざわざ撮るところまで気がまわらない。たまに思い出したように撮る。ほんとうはどうでもいい日常のものを撮ったり録音録画したりすれば、あとあと見て聞いて笑い泣きするのでしょうね。「あたりまえ」はない。われら消えもの。

ハンバーグをつくろうと思ってアプリでレシピを検索すると、豆腐ハンバーグばかりがヒットするのどうにかしてほしい。肉を食わせてほしい。豆腐をいれるな。牛や豚の命を腐れた豆で代替しようなんて、人間ってひどいのね。でも豆腐ハンバーグもおいしいんだ。いずれお肉だけのハンバーグが「豆腐じゃないハンバーグ」と言われる日も近い。

回転寿司が世を席巻してできた「まわらない寿司」みたいな日本語表現。あとから現れたもののおかげで、もともとあったものにつくあたらしい名前をレトロニムというそうです。お肉のハンバーグはもはやレトロなのかもしれない。レトロ肉。時代の趨勢。




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