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日記610


じぶんが将来どうなりたいとか、どうなれば幸福かとか、なんでもいいけど未来への問いを設定すると必然として顔を覗くものが「死」です。まさしく自然に、必ずおとずれる。おそらく多くのひとは、それは伏せて考える。んなもん勘定に入れたって実益がともなわない。意味をなさない。たったひとりで生きているのならそう。しかし「死」を勘案しない人間関係によって構築される社会って巨視的に持続可能なのか。「死」に当事者として相対することばが不在の国は浮薄に過ぎる。吹けば飛ぶ。生きて死ぬことは「まわす」ことだ。いずれ何もかも手放し、あずける。これも経済。エコノミーではなく、経世済民ということ。地に足がついていない。吝嗇に生きている、哲学のない国。

人類史において、これだけ「死」の影が薄くなった時代もないと思う。正確には、目を背けることが可能になった、というべきか。影は依然として黒く濃厚にまとわりついてくるがふりかえらない。どうでもいいけど。たぶんそのほうがいい。死ぬのはいつも他人ばかり。

「死」は極端ですが要するに、じぶんの未来はじぶんだけのものではない。そこに思いが及ぶ。これも個人的な感想です。くそくだらない。だれにも押し付けはしない。決して立派なものではないし、実利的でない。くだらない感想。仕事しろ。





9月10日(月)の朝です。すこし涼しい。きょうは雨がちの東京。から大阪へ行く。長距離移動をすると省かれる「あいだ」がもったいない気もする。ほんとうは歩いて行きたいくらいだ。あいだの道を見ていたい。すっとばしてしまうのは趣味じゃない。でも数日かかる。ドラクエなどのRPGでもマップを隅から隅まで行き渡り、村人ぜんいんの話を聞いてからでないと進めなかった。ちゃんとひとの話は聞かないと。しかし「時間の無駄」と思われることをよくする。何が無駄で、何が無駄でないかはじぶんで決める。その通り、生まれてから死ぬまですべてが無駄だ。うれしいね。いいから仕事しろ。

関西にもっていく本。なんだろう。織田作之助とか。ベタです。福岡には夢野久作をもっていく。みたいな。アフリカにレーモン・ルーセルをもっていく、みたいな。火星には『火星の人』をもっていく。遭難してもいいように。ヒマラヤにはピーター・マシーセンの『雪豹』がいい。アッシャー家に行くときは『アッシャー家の崩壊』。アッシャーという名の知人ができたらそうする。秋の北京ならボリス・ヴィアン。北京も秋もわたしには関係がない。紙はかさばる。kindleがいい。




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