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日記612


きのうの記事からの繰り返しで恐縮ですが、わたしは性病ではありません。いちおうの診断はアトピー性皮膚炎だそうです。連日、無自覚に紫外線を浴びていた。免疫系がやられるまで。そんなアレルギー体質ではないと思っていた。「肌が弱い」という自覚を強くもたないといけない。なんか塗って外出するとたまに「いい匂い」と言われる。ちょっと恥ずかしい。清潔感は肌の弱さからきています。

写真は神戸、ハーバーランドの夜。9月16日(日)。カップルたちが歩く。いい雰囲気。そこへ、小学生くらいの女の子がひとりでぽつんと座っていた。指をくわえて、ふしぎそうにあたりを見まわす。わたしもふしぎだと思う。みんなペアで身体を寄せ合う。手をつなぎ、歩調を合わせて、ふたりであることを証している。互いに笑いかける、ふとした仕草。相手のほうへ視線を向けるタイミングがぴたり。途方もないことをしているね。

カップルが好きです。第三者として眺めること。野次馬として。きみら、好きなんやね、うんうん。好き合っとるんやね。おっちゃんな、わかる。見てたらわかる。バレバレです。その時間、いいよね。ずっとそうやって、好きでいてください。と、末永く幸あることを願ってやまない。あなたたちの特別なひとときが終わらないように。あしたがこないように。いまがつづきますように。これはどこから目線だろう。

平和ボケも甚だしいが、みんな、誰にでも、好きなひとと特別な時間を過ごすように接することができれば、なんて妄言を吐きたくなる。しかし、そんな世界であれば「特別」がどこかへ行ってしまう。恋がなくなる。境界がなくなる。家族がなくなる。国がなくなる。関係がなくなる。ひとつになる。それがもしかしたら、愛なのかもしれない。万物を外側から囲繞するように。ぜんぶを均一に覆い、おなじものと化してしまうような。宇宙を等価に縁取るもの。暴力と言ってもおなじこと。きっと大きすぎて考えることもできない。ふたりが限界だよ。


自他の境をあいまいにしたい。あなたがわたしであるように。わたしがあなたであるように。でもちがう。わたしはあなたではなくて、あなたはわたしではなかった。差異性の論理と同一性の論理のあいだに、ふたりの関係がある。おなじだったり、ちがっていたり。恋のことばはアメーバ状だった。ぐにょぐにょ。まとわりつく。ときにわずらわしく、ときにやさしく、つないで、途切れて。絶えざるメタモルフォーゼを繰り返す。変態する。彼は彼女に言う。なぁ、変態しようや。


9月17日(月) の夜。

映画『寝ても覚めても』を観ました。テアトル梅田。ちいさな劇場の前から3列目ど真ん中。監督は濱口竜介。柴崎友香の小説が原作。小説のほうは、まだ読んでいません。手元にもない。

心斎橋のスタンダードブックストアで「柴崎友香の本棚」というフェアをやっていた。そこで買えばよかったかな。柴崎さんの蔵書として置いてあった細見和之の『言葉と記憶』(岩波書店)を読みたいと思った。カラフルな付箋がたくさんついていた。イーフー・トゥアン『空間の経験―身体から都市へ』(ちくま学芸文庫)にも惹かれた。ほかにもいろいろ。ふところをくすぐられるものを考えなしに買っていたら路頭に迷う。

映画の前情報はあまり入れずに観ました。東出昌大の一人二役に気がつかないという観賞者としてのフシアナっぷり。彼が演じた麦と亮平は、ちがう役者かと思った。完全に似ているなーすごーいと思いつつ。冗談ではない。前情報の入れなさすぎも問題かもしれない。そういう問題でもないのか。文脈を読むちからの問題か。いや、東出くんがすごいのだ。わたしの虚構を純粋に受け入れるちからもすごいとしておこう。こどもか。すっかり騙された。信じてたのに!

反動で疑り深くなってしまう。もしかすると、ぜんいん東出くんだったのかもしれない。朝子も串橋もマヤも仲本工事も。わたし自身も、じつは東出くんなのかもわからない。あらゆる可能性は頭に入れつつ、説明ぬきの不親切な感想をかるく書きたい。ネタバレには留意しません。





麦は朝子の「淀み」だったと思う。麦と朝子は無時間的な夢として出会った。朝子が麦を呼ぶ声には、とても空虚な響きを感じた。寝言みたいに心地よさそうな空虚さ。麦は長らく離れても、時間の流れとは関係なく朝子の中に淀みとして居座りつづけた。

おなじ顔の亮平は反対に「流れる」人物だったと思う。朝子は亮平の顔に、麦とおなじ淀んだ夢を幻視するが、現実感の乏しい麦とはちがい、亮平の時間は地に足の着いた平穏な流れの中にあった。なめらかに流れる生活の時間。ひどく気まずい雰囲気になっても、関係性を淀みなく進ませる理解力と機転の持ち主でもあった。彼によって空気が流れる。やがて朝子と亮平との時間も、きっかけはさておき、流れ始める。

しかし麦は朝子の中に沈潜し淀みつづけていた。さておかれた“きっかけ”が不意に流れを遮断する。朝子は麦の淀みにふたたび嵌まってしまう。それは亮平にも流せない裏切り行為の遺恨となる。淀みない亮平の時間は、朝子の淀み(=麦)によって堰き止められる。朝子はじぶんの淀みを経由して、夢の淀みを現実の淀みに移し替え、過去の夢を漱ぐように、その経由(裏切り)が原因でおなじく淀んだ亮平のもとへと、また帰ってゆく。ラストはマクベスの撞着語法を連想させる。きれいはきたない。きたないはきれい。そこには濁った川の流れがあった。

じぶんなりの、かんたんな話の筋です。
一回の観賞でつかめた大雑把な骨組みだけ。
やたら複雑化させているかもしれない。

たぶん映画の主題とはズレるけれど、あとからムージルの「愛の完成」を思い出しました。この小説では夫への愛の必然を感じるため、女性があえて第三者に身をゆだねる。夫への気持ちを新たに掴もうと、べつの男性を経由する。そんな女性の倒錯のごときものが描かれる。

でも『寝ても覚めても』の朝子の裏切りには意識を感じなかった。意識に上る間もない決断。そこにある淀みに足をとられるように麦へと落ちていった。ひと息に裏切ってから、また亮平のもとへと戻っても、それが確かなものなのか、「愛の完成」であったのか、わたしにはわからない。亮平との時間をいちど止めることによって、亮平と過ごした時の距離や深度に朝子が向かい合ったことは確かなのかもしれない。

「裏切り」という語彙を使用していることからわかる通り、わたしは亮平にシンパシーを抱いている。朝子が信じられない。フラットに言うなら、心変わりか。終盤、しつこく亮平を追いかける朝子がおそろしい。逃げるよ。信じたくない。それでも、戻ってくれてよかったという安堵もある。朝子への両価的な想いが同居する。

麦はかぎりない人物だと思う。果てしがない感じがする。先が見えない。目の前からいなくなることはあっても、死なないんじゃないかと思う。亮平の時間にはかぎりがある。気持ちにもかぎりがある。すごくちゃんとしている、いいひとだ。ともすれば、先が見えてしまう。それが安心感であり、退屈にもなるのか。

見えるもの、見えないもの。流れ、淀み。夢、現実。類似、相違。きれい、きたない。寝ても、覚めても。そんなあいだを往還する映画だったと思う。これはじぶんの思考の癖に引きつけているところもある。一回ではリズムがつかみきれていないと思う。また観ればきっと感想が変わる。


かぎりない憧れより
かぎりある行いが立ち昇る
昇りきらぬうちに 震えて傾くよわい噴水のように


リルケの詩の断片が浮かんだ。『形象詩集』から。


わたしはこれからも東京と大阪を往復する。
そのあいだはすっ飛ばして寝る。
おやすみなさい。




コメント

anna さんのコメント…
あ。更新されてた。おかえりやす~
昨日出かけててチェックできませんでした。
神戸に行ってはったんですね。
ハーバーランドの小学生の女の子なにしてたんでしょう。
まだそんなに遅くない時間なのかな。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ただいまやす。「チェックできませんでした」ということばを裏支えする時間がうれしく、気恥ずかしくも感じます。日常的にチェックしていないと出ない発言だと思うので。たまにでいいんです。ふふふ。ありがたいですね。

大阪を中心に兵庫、京都と三県まわりました。ハーバーランドに行った時間は、夕食後の21時くらいだったかな。ぽつりと座る女の子。おとなを観察するように周囲を見回す。撮って間もなく駆けていきました。浮き足立つような軽い身のこなしで。たのしそうに。