スキップしてメイン コンテンツに移動

日記614


これが先週のベストショットかもしれない。9月15日の土曜日。もう先々週か。先週の土曜は、きのうになる。一週間は日曜日から始まるって、よく忘れる。

ああ、癖でつい「かもしれない」と書いている。良く言えば慎重。しかし、これについての慎重さはいらんだろう。不必要なところまで慎重なのだ。てめえの主観なのだから言い切っていい。これが先々週のベストショットです!寝るおじさん。座るおじさん。これ以外ありえない。決定です。京都の鴨川。

一週間が早い。東京に帰ってから、あきらかに時間が加速している。まとまった期間べつの環境にいると、主観的な時間の流れ方の変化に気がつく。環境に規定される人間の認知は多い。根本の気質は変わらないが、その働き方というか、あらわれ方というか。環境が変わればそこに合わせて生きる方法も変わる。あたりまえか。適応、ということ。

きょうは9月23日の日曜日。ここ数日は、さむかったり暑かったり。毛布をかぶって眠ったかと思えば、昼は真夏の格好をする。クローゼットをひっくりかえしたり、ふたたびしまいこんだり。部屋の椅子が前々から固くてお尻が痛くなるので、ちょうど毛布で応急処置ができた。

ふとメガネと顔の関係を思う。メガネを長年かけていると、顔面がメガネに合わせて変化してゆく感じがします。メガネに依存した顔つきになる。メガネを外しても、どこかメガネの面影が残っている。メガネがないと顔面のパーツが足りないような。そんな気がする。これも適応なのか。もともと「メガネが合う顔」なのではなく、変化を経て「メガネに合う顔」となる。

わたしの顔はメガネがないと完成しないなと思う。メガネを外すと、目が「3」になるもの。キテレツ大百科の勉三さんみたいに。一人称が「ワス」になるもの。語尾はもちろん「だす」で、ひどいときは学ラン姿に変身してしまう。プリキュアやセーラームーンのようなキラキラの変身シーンを経て勉三さんになる。

じつを申せばほんとうは逆で、変身と見せかけてメガネなしの勉三さんがほんらいのわたしであり、ふだんはメガネプリズムパワーでメイクアップしている。これは末代まで秘密の話です。ここだけの話。


京都の佛光寺。境内の食堂で、ゆばあんかけ丼を食べる。そして寝てる人を撮る。むかしデイリーポータルZの林雄司さんがよく撮っていた。「やぎの目」というサイトを熱心に閲覧していた00年代初頭。林さんは、一見ゆるいことをしているけれどストイックな方でもあると、画面越しの印象として思う。ストイックにゆるいことをする。それはそれで周囲にもプレッシャーがかかるだろう。

どんなことでもプレッシャーにはなる。「そのままのあなたでいて」と言われたって、「そのまま」から外れると期待を裏切るようでまずいのではないか、などと思ってしまう。「遅刻してもぜんぜんいいよ」と言われても、試されているようでおそろしい。わたしがこれを言う場合、5年までの遅刻なら許す。ただ5年を1秒でも過ぎたら、2日にいっぺんレジで小銭をぶちまけてしまう呪いをかける。しかしこれからの時代、電子決済などが広く普及するでしょうから大した呪いではありません。時代遅れの呪いなので安心してほしい。

厳格な人間と付き合うにはとうぜん厳格なプレッシャーがつきまとう。逆に、ゆるい人間と付き合ってもゆるいプレッシャーがつきまとう。人間関係を構築する以上、なにかしらの欲求を互いに受容し合わなければ関係は成立しないのだから、圧力を受けることは仕方がない。前提中の前提。なるべく、互いに適合的な圧力同士をもちよる関係なら継続が可能なのだと思う。あのひとの欲求ならすんなり受け入れられる、みたいな。伝え方もふくめて。

むろん完全に適合することはありえない。ぜんいん他人なのだから。きれいな「凹凸」を描いてフィットする者同士であれば理想だがそうもいかない。かたちは変化する。罪を許されて安堵したその数日後、許すことさえひとつの欲求の変種でしかなく、しかも誰の腹も満たさないくだらない欲求だったと悟ることもあるだろう。

「わたしだけはあなたを許さない」と、こう言われたほうがロマンチックに響くときもある。「世界中の人間があなたの味方をしても、わたしだけは敵でいる」みたいなプロポーズのことばがあってもいい。中学生男子が好きそう。要するに「自分だけはちがう」ということ。わかりやすく「特別」を訴えている。

こんな横道に逸れる予定はなかった。


鴨川のお昼寝おじさん&お座りおじさんを撮ってから数メートル先にいた子猫です。9月15日のこと。佛光寺をあとにしてホホホ座へ、それから鴨川沿いを散歩しながら誠光社へ向かおうとする途中の写真。知り合いとふたり。友人でいいかな。すこし道案内をしてもらう。

じぶんと過ごす時間を割いてくださる方がいるって、ありがたい。誰であれ得難いもの。わたしは「一回」の意識がつよいから、余計にそう思うのかな。二度とこない一日なのに。これでいいのかなって。お互いそうか。ははは。

時間の比較はしない。油断するとついしてしまうけれど、ほんらいできっこないんだ。三井寿がやさぐれていた時間だって、無駄とは言えない。それはそれとして単独にある。とりかえしはつかない。比較したらそこで試合終了だよ。スラムダンクの話でした。

いっぽうで惜しんだり、悔いたり、もはやない不在のためにいまが在るのかもしれない。そんなことも思う。比較不可能なその都度の独立した時間と、過去から地続きのまわる時間と。二度と巡らないものが巡りくるふしぎを思う。

ホホホ座で買った古本には著者のサインと簡単な手紙が入っていた。著者から、知己の個人へ宛てた謹呈本だった。これもいいのかなと思う。たまたま手にとった中古の本。おもしろいから買ってしまった。あとで名前を検索すると、本を謹呈された方は画家らしかった。

古本を売る仕事は、個人の所有していた中古の時間を媒介する仕事でもある。古い本には多くの時間が重なっている。わたしはその時間を保管する権利にお金を払う。家にもちかえると、見知らぬ他人を招き入れたような気分になる。無礼を働かぬよう、棚にそうっとしまっておく。読まないのかよ。

誠光社でほしかったCDを買う。棚を眺めているとき、店主の堀部篤史さんに講演の依頼かなにかの交渉ごとをする外国人が入店してきた。始めは英語で、堀部さんが困るようすを見てすぐ日本語に切り替わる。おそらくその場で耳をそばだてたお客さんの誰もが「日本語できるんかーい!」と心の内でつっこみをいれただろう。なんか意地の悪い感じがした。

誠光社をあとにして帰路につく。
ゆのみをもらう。うれしい。

なにかを応援するとはどういうことか。距離を保って静かに待てばいい、それだけかもしれない。と教えてもらえた気がして、これもうれしい。横浜ベイスターズのファンが「38年周期」と言われる日本一を待ちつづけるようなものだろうか。

なんの保証もないものを、ずっと待っている。哀れといえば哀れにも思える。しかし応援とはそのようなものではないか。期待に胸が高鳴るときも、なんら望むべくもないときも。健やかなるときも、病めるときも。わけもなく待っていられること。関係を断つことなく、つづけていること。




コメント

anna さんのコメント…
お~、京都やあ。
最初の画像は御池通りの川端ですかね。
私の日常です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ひとつ南の三条通りです。弥次喜多像の付近。ホホホ座の三条大橋店から御池通りを越して丸太町通りのほうまでふらふらと歩きました。そのあたりに誠光社があります。土曜日お昼の鴨川の雰囲気、雑多な人々が入り交じる感じがいいですね。