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日記618



缶チラと釘チラ。

街にあふれるチラリズムを撮影する、チラリズム写真家として食っていけるのではないか。この椅子は空いている。需要がないか。エロいやつかと勘違いした男性に怒られそう。エロい気持ちを台無しにしてごめん。

でも缶や釘もエロいと思うんだ。気持ちをいったん落ち着けて、ゆっくり想像してごらん。彼らの秘部を。あせらずじっと見つめていれば、だんだんと高ぶるものがあるはず。胸が躍るはず。やがて頬がじんわり熱を帯びて、薄赤く染まる。……ね。それは本物の紳士だけに許されし高貴なエロ。動物とはちがう、人間にしかないエロのかたちです。天皇の家系は代々こういうもので興奮しています。そうした情操教育を受けます。やんごとなき至高のエロなのです。たぶん。限りなく確信に近い妄想です。すぐわかりやすいエロに飛びつく庶民感覚もいいけれど、この世界にはもっと多様で豊穣なエロの沃野があるのです。



カバチラとクマチラ。

このちらりとほの見えるかわいらしさたるやどうでしょう。耳からひょっこり出現しているクマ。うしろを向いている黒い塊も味がある。カバにいたっては、まるでソース漬けにされているようだ。プール真っ黒。ほんとうにカバなのかさえわからない。もぐったままぜんぜん出てきませんでした。「カバ」と書いてある看板を信じるほかない状態。背中だけ見せて「さて、オレはほんとうにカバかな?」と水中のカバがほくそ笑む。カバであることはわかっているのに不安になる。カバだろお前。カーバカーバ。……こっち向いてよ。顔をみせてくれ。お願い。


9月29日(土)


朝から頭痛がする。天気の影響だろうか。台風がきているという。雨で肌寒い。ズキズキと脈に合わせて左のこめかみが痛む。いま立ちながら書いています。血流で痛み方が変わるため立ち姿勢。坐るより横になるより、いちばん痛まないと思う。ちょうどいい高さの本棚の上を片付けて、パソコンを置く。本は床に積む。比較的らくでいられる。

メリットは多いかな。立ちっぱなしで機動力を確保しておくと次のアクションをスムーズにおこなえます。腰を落ち着けるとふたたび立ち上がる意志がなくなってしまう。「立つ」「歩く」「しゃがむ」などの動作は連続している。いったん「坐る」までいくと、動作の連続性が途切れる。もういちど「立つ」へ身体をもっていくには微力でも意志の力が必要になる。決心がいる。ひとつの決断をしなければ坐位から立位には到達できない。じぶんの意志の弱さは痛いほどわかっている。

いったんすっぽり落ち着くと「ずっとそこにいたい」と思う。ハマって抜け出せない。心地よいぬるま湯につかっていると永遠に出られなくなる。でもいつまでもそこにいるわけにはいかない。前にも書いた気がする。逆に言えば、出口をふさぎたいのなら坐ったり寝たりして落ち着けばいい。

わたしは、なるべく立っていたい。基本的にやる気のない人間だけど変なストイシズムが趣味でもある。要するに、プレイです。みうらじゅんの「親孝行プレイ」みたいなもの。禁欲プレイ。じぶんの身体の流れと意志の関係を意識的に把握して、だらけないよう鞭を入れる。他人には求めず、あくまでおのれにだけ。

立つほうが性に合っているのかなーとも思う。スーファミも立ちながらやる小学生だった。何時間も立って、その場で足踏みしたりリズムをとったりしながら『ヨッシーアイランド』をやっていた記憶がある。立っていたほうが身体の自由度が高い。選択肢が増える。ゲームを切り上げるためのエネルギーも低減する。

中学生のころは、学校から帰ってプレステの『せがれいじり』をひとりでやるのが楽しみだった。むろん立って。「プレゼントに最悪」というCMに惹かれて買ったソフトをプレイする時間が、中学生のじぶんには最高のプレゼントだった。あんまり理解を得られないだろうと思いこんで誰にも言わずにひとりでプレイしていた。世間的にはヒット作なのに、ひとには言えない。そういう作品はたまにある。初めて読んだ村上春樹もそんな感じだったかな。父の棚から勝手に持ち出した。人に言えない習慣、罪深き愉しみ。

姿勢の話に戻すと、ゲームをするとき「立つ」は客観的で「坐る」は没入をうながすものだと思う。じぶんの感覚だと「立つ」はひとつ引いた姿勢です。まさしく中立的というか。いつでも坐る用意があって、いつでも立ち去る用意がある。どっちつかずの姿勢とも言える。あいまいなやつ。

「坐る」には大雑把に2種類あり、ひとつは椅子に腰掛ける姿勢。これは道具が介在することによって、社会性が担保されるように思う。もうひとつは床や地面へじかに坐り込む姿勢。外ではなかなか見かけない。コンビニの前でたむろする人々か、社会運動の坐り込みか、遠足か。自宅だと気軽に床をつかうけれど、屋外でこの姿勢をとると特有の磁場が発生する。

わたしはお花見の宴席が苦手。ブルーシートの上に坐り込むこと。きっとこの磁場が苦手なせいでもあろう。内輪の空気が強くなる。排他的な姿勢だと思う。ぶっちゃけ、他人にそこまで心を許せない。『せがれいじり』にも許したことないのに。そんな坐り込みの排他性が政治運動としては効果をもつのだろう。移動をさまたげ、そこに立っている者を脅迫する。

「立っている」という状態のあいまいさが好きなのかもしれない。どちらにも行ける。たとえば劇場だと、観客は坐らなければならない。映像や演者との関係を区別するために。劇場でいつまでも立って、客でも演者でもないあやふやで浮いた人間となれば、すぐさま排除されるだろう。確かに邪魔くさい。

ただ立ち続けるだけの異邦性みたいなものがある。なにをするでもなく単に立っている人間がいつも街にいたら、不気味でしょう?妖怪とか心霊とか魑魅魍魎のたぐいとみなされる。「立つ」は、境界にたたずむ姿勢だと思う。

どうでもいいけど、運動としての「坐り込み」ってどうしてもなんか茶番みたいだと思ってしまうから、本気度を示すためにもっとグレードアップしてほしい。「埋まり込み」ぐらいの。兵馬俑みたいにみんなで埋まっとく。重機でガンガン掘ってね。生き埋め。頭だけ出しておきますか。まさに、てこでも動かない。どかす側は、そうとう困ると思う。埋められたひとも困ると思うけど。へたすりゃ死ぬ。ちゃんちゃん。

姿勢の話、むかし読んだ別役実のエッセイを思い出しながら書きました。別役実はいまパーキンソン病で「野垂れ死にたい」と漏らしているらしい。と、読売新聞の書評欄にあった。内田洋一著『風の演劇 評伝別役実』(白水社)、歴史研究者の本郷恵子さんによる評。なんか、「本郷恵子」でGoogle検索をしたらぜんぜんちがうアイドルの写真とともに日本中世史研究者の情報が表示されて戸惑う。夫(本郷和人さん)がAKB48のファンだからか。いわゆる「俺の嫁」みたいなことか。洒落てますね。



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