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日記619



9月30日(日)


朝はなんとなく晴れ間がちらつくも、すぐに曇天。徐々に激しい風と雨。夜中に台風。JR線が事前に運行取りやめのアナウンス。夕方にテレビをすこしつけて、消す。念のため、避難の準備もしておく。いつも探してしまうメガネを探さぬように。だいじなものをまとめる。

風の音が絶えずぐるぐるしていた。窓に触れていると、押されてたわむようすがわかる。ぐにぐに。あんがいやわらかいんだなーと、のんきに思う。割れないための適度なやわらかさ。悠長に夜中まで起きていると、電気が落ちた。停電か。寝ちゃう。明かりがストンと落ちて、すこしせいせいする。「あ、寝るっきゃないわ」と。やることの選択肢が大幅に減る。気がらくになる。夜は暗いものだった。


10月1日(月)


朝になって、顔を合わせた家族が「眠れなかった」と口々に言うなか、じぶんだけ快眠で心配になる。危機が迫っているときに眠っていたら死んでしまう。でも眠いときは眠いんだ、パトラッシュ。ひとはいずれ眠る運命なのです。だから寝るときは寝る。起きるときもギリギリまで寝る。健やかなるときはぐっすり寝る。病めるときもぐっすり寝る。いつなんどきも寝る。




10月1日の教訓。終電を逃してはいけない。帰る家があるうちは。こんなことをしていてはいけないと思う。じぶんを責めているわけではない。ただ漠然と思う。夜の光があんまり心地よくて、帰りたくなくなった。ふだんはまぶしくて忌々しいのに。街明かりの空間を茫洋と漂っていたかった。若者っぽくて恥ずかしい気分。もうさほど若くない。台風一過と秋の空気。「なんか天気がいいなー」と感じて、ふっといなくなる。伊集院光さんのエッセイで、そんなひとについての話があったような。なかったような。とにかくそんな気分。

わたしはいちどいなくなった。ひと駅だけ乗り過ごして、そこから歯止めが効かなくなった。ふたつ、みっつと、どんどん乗り過ごしているうちにどこかよくわからない時間に行き着いた。それがいまだった。もはや降りる意志はなかったけれど、偶然いまの駅に意識が止まった。アナウンスの声はわたしの名を呼んで「降りよう」と誘った。「ああ、うん」とかなんとか言って降りてみた。

ことしはそんな年かもしれない。レールを外れて、歩くことが始まった。意志を示して方向を決めてみること。こんな比喩はクソ陳腐だ。でも人間はいずれ、クソ陳腐なところに収まって埋まるのだからこれは仕様だ。「仕様がない」ではない。ありがたいことに、道行く軌道がたまたま重なってとなりで歩くひともいる。次の曲がり角もとなりにいるといい。




友人とふたり渋谷、ユーロスペースで映画を2本。
毎月1日はお安い日。

三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』。入場するスクリーンをまちがえて冒頭だけ見逃す。悔しい。ふたりで気づかない。チケットを確認するひとも含めると三人。ボケボケだ。ユーロスペースにあるスクリーンはふたつ。二択でまちがう。そんなやつなかなかいないんだろうよ!油断したなあ。ははは。

映画の主要な登場人物のひとり、佐知子がカフェでヴァルザーの本を読んでいた。そしてラッパー、OMSBの出演。鑑賞の直前、ユーロスペースの壁に張り出してあったQuick Japanの記事を読んでOMSBの出演を知った。それまでは「佐藤泰志の原作」くらいの情報しか持っていなかった。たまたま好きな小説と好きなラッパーがおなじ映画に。つながりそうにないものがつながる。原作の佐藤泰志は読んでいません。

嘘とか、誠実さとか、そういうことがこの映画の鍵なのかと思ったけれど、思い返すといちばんは「からっぽ」ってことではないかと思う。主人公の「僕」がバイト先の同僚をトイレでボコボコに殴るシーンがある。一見よくわからなかった。これも「からっぽ」だと思えばしっくりくる。

「僕」は「なんかお前わかってねえな」と首をかしげながらとつぜん殴る、蹴る。きっとこの暴行の理由は「僕」にもきれいに説明をつけられない。「なんか頭にくる」。こういう奴をぶちのめしたい。そこだけが明確で。それでいい。

じつはわたしもそうなんだ。ぜんぜんわからないけれど、それがゆえにすごくよくわかる。じぶんの生きている空虚な時間が、意味に穢された感覚。ただ、わたしは相手を殴ってどうにかなる問題ではなく、どこまでもおのれの問題だと思う。くだらない価値観の相違。殴れば復讐されてしまう。どちらもくだらない。からっぽで、もうだいたいのことは「なんかさ」とそれだけでいい。

終わりのほうで、そのままモノローグとして挿入される原作の文章がある。「僕は率直な気持のいい、空気のような男になれそうな気がした」。読んでいませんが、これは佐藤泰志のことばだとわかる。ちょっと異質で、じぶんに言い聞かせるような独白だった。空気のような男になれそう。いやちがう。そうはなれない。そんな男じゃない。時間をカウントする。ただ流れるカラの時間に全身をあずけていたい。ほんとうにそれでいいのか?数秒のあいだに幾度もの逡巡をする。進む、進む、時が。不確かにめぐり続けていたあらゆる時間の「なんか」が走り出す。呼び止める。漂泊していた「僕」の意志が短いあいだ鮮明なって終わる。前途がひらけるわけではない。“いま”の閃きだった。

あたまではなく、身体に残る映画なのだと思う。多くを語らず、現実の時間がゆっくりと身を寄せてくる。そのせいか、きょうは帰りたくないと思ってしまった。映画の空気感がまるごと全身にしみわたる。渋谷は夜遅くても人間が多かった。なんでだろう。なんか……。10月2日の午前5時、帰宅中の電車で「Local Distance」を聴いていた。


なんにもないならないでなんかやることあるだろ たぶんなんか
よくわかんないけどなんかきまったしなんかやってりゃなんかあるっぽい


ふわふわしてどうしようもないリリックだと思う。それがたぶんリアルでもある。映画内でOMSB本人がやっていた「Think Good」のリリックは、決然と突き抜けるようで捻じくれた繊細さもある。「こうだ」という結果とともにある過程の泥臭いことば。

「どうしたんだこいつ」ってなぐらいこれからもぶっ通してやんだ、と言えるまでにはいくつもの逡巡があった。いったりきたり。声が図太く、ラップも堂に入っているので一聴した印象だと力強さばかりが目立つかもしれない。背景を知ったり、アルバム単位で聴くとまたちがう。




2本目の『カメラを止めるな!』は、ふつうにおもしろかった。上田慎一郎監督。「笑える」と聞いていた。でもあたまをまっさらにして笑える映画かというと、そうではない。緻密に考えられていると思う。前評判の高さもあり、「笑い」に関しては斜に構えてしまう。

あーここはこうやって回収して、そっかーこうなんだーみたいな小賢しいクソなリアクションしかとれない。真顔で観終える。じぶんは客なのに客らしくリラックスできないところがあって最悪だと思う。きちんとした伏線の回収やオチには興味がないのかもしれない。だって、そんなのマジメじゃん!出てくるのは「ちゃんとしているな~」という感想だけ。

投げっぱなしや置いてけぼりにされるほうが笑いとしては好きです。「なにこれ?」みたいな。ふまじめで、いい加減な、ちゃんとしていないやつ。及びもつかないバカが好き。理解不能で笑うしかないような。これは好みの問題。

「笑い」よりも、演技とそれ以外のせめぎあいというテーマに惹かれる。その狭間における関係性の変容、フィクションと現実がわかりやすく溶け合うときにあらわれる人間の姿の描かれ方みたいなものが、とても良かった。

虚構を成立させるために必死の人々。コミュニケーションってこういうものではないんかと。描いた虚構をできるだけ守りたい。あなたの役もわたしの役も。だれもが役をもち寄って、場を構成している。そこにおける共通の虚構を全員で守る。やぶれかぶれでも。目をつぶるところはつぶりつつ。その必死さは滑稽だが、美しくもある。

“守りたい”という想いがあふれかえって滑稽化した喜劇映画だったと思う。そうやって捉えなおすと胸が熱くなります。ただの笑える映画じゃない。伏線回収よりもわたしは映画の枠を超えたものを持ち帰りたい。

「考え過ぎはよくないよ」と言われた気もする。




映画を観終えてから渋谷を適当にぶらついて、閉店後の居酒屋の前で、階段に腰掛けお酒を飲んでいた。ちょっと路地に入ったところで誰もいなくてちょうどいいかと思っていると、片付けをする店員さんが出てきた。

「なに、DJさん?」と聞かれてとまどう。「働いてなくて、ははは。そろそろ潮時ですね」みたいな話をした。やさしそうな、気のいいおじさんだった。邪魔だったろうに。通路の隅をネズミが走っていた。こちらの目線も走らせる。一瞬でいなくなる。

そんなことをしていたら、終電を逃してファミレスで一夜を明かした。




朝焼け。

10月はじめの、この日に友人と交わした会話はすべてからっぽのように思う。実りがなくても、ともに居てくれる友人がいる。「実り」とはなにか。あったためしなんてない。ぜんぶくだらない気がする。焦りと甘えと気休めの時間。生きていればそれでいい。そんなわけないだろ。でも、これはこれで。そうだね。ははは。

なんにもないところでのつながりは、心地よい。でもたまにものすごく不安になる。「こんなのつづくわけない」って。失礼かな。たまにです。ごめんね。ありがとう。


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