話したい、と思うときは書けなくなる。出ていきそうなものを深呼吸で押し留める。ことばをしずませる。しばらく息を止めるような感覚で緘黙。話す相手がいれば、ひとことふたことでレスポンスが返ってくる。吐き出したものがすぐに空気へ拡散して流れる。うすく浸透してゆく。
ここでは、なにをいくら書けどもレスなんか期待しない。そういう態度でしか始められないものがわたしにとっての「書き込み」だった。ここではなくとも。あ、twitterはすこし期待してしまう。でも来やしない。だれも来やしない。と言い聞かせる。
文章作法としては「読者を想定して書け」とよく言われる。でもサバンナで屍肉を漁って育ったせいか、人間のことはわからない。それと、そう、いちばんは縛られたくないだけだった。なにを書いてもいい。と言い聞かせる。
「話したい」はきっと「縛られたい」なのかも、なんていま思った。不安なとき。じっくりと腰を据えられずに心身がふらふらしてしまうとき。誰かと話したい。ずっしりと安定した錘がほしい。安直に出てゆくことばを塞ぐ、重たい問いを見つけたい。補助線を引いてほしい。
それは、個人ではいられないということでもある。
ネットがどんどんコミュニカティブな空間になってゆくにつれ、葛藤が生まれるようになったと思う。はじめは個人の集合としての空間なのだと、わたしは認識していた。個人と個人の判断で成り立つ。「なにを書いてもいい」。それを決めるのは個人だ。「良い」も「悪い」も、てめえで育んだ倫理にしたがえば事足りる。
十数年前は、それで秩序が保たれていたように思う。「個の発信」が主で、「つながり」が主ではなかった。「みんな」を斟酌しない理想のところ。「みんな」のために、お仕着せのルールを声高に叫ぶのって野暮だった。
法律も政治もいらない世界が絵に描いた餅の理想だと思う。絵に描いたやばいほどの餅だ。そんなやばい餅は手が震えて描けない。筆を握ることさえままならない。人間が多くなれば、なんらかの調停は必要になる。「兎角この世は」なんつって、ひとりでいじけてばかりもいられない。わたしが「みんな」の中に生まれたことも確かだから。
最低限、そこに縛られることが、倫理だった。
どうどうめぐり。最低限です。
コメント
読むだけの気楽な立場ですけどね。