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日記621





10月5日(金)

くもり。のち、すこし雨。

音のアーキテクチャ展。
21_21 DESIGN SIGHTへ行きました。
会期は10月14日(日)まで。

会場に入ると、Corneliusの小山田圭吾が作曲した「AUDIO ARCHITECTURE」がずっとループしています。そこで展開される9つの映像。おなじ音から立ち上がるイメージは一様ではない。的なやつ。「聴く」は耳だけのものではありませんで。




同居している祖母はよく「耳が遠い」ことを「音は聞こえるけど、なんだか意味がわからない」と訴える。話し声でも、音楽でも。「聞こえないの」とかんたんに結論づけないところに切実さを感じる。処し方を求めるように、なるべく正確に訴える。祖母はどの発言にも一拍おいて考えた形跡がある。

音は聞こえる。でもわからない。音を脳内で情報として再構築することに時間がかかっているのだと予想している。耳から入力された音がすぐに像を結ばない。目は加齢により水晶体が固くなって焦点の合う範囲が狭まる。同様に、聴覚が像を結ぶ範囲もしだいに狭まってくるのではないか。速度の範囲やタイミングの範囲。構造としての音の束を即座につかみ出せない。「耳が遠い」は耳だけの問題ではない。

祖母にいきなり声だけでなにかを伝えると、大声であってもかなりの確率で聞き返される。しかし、いったん呼び止めてから速度を意識して口の動きや表情や身振り手振りも踏まえ話をすると、あきらかに有意な確率で理解してくれる。事前に伝えるあいだの空間をつくること。視覚や意識付けもふくむ総合的な認識として「聞こえ」が成り立っていることがわかる。





音のアーキテクチャ展では、おなじ音にちがう映像が掛け合わされる。視覚によって音の印象も変化するようで、その感覚はおもしろい。おなじ映像にちがう音を流してゆく逆のことをやってもよさそう。いや「BGMで映像の印象が変わる」なんて、ありきたりの常識かな。

あとからinstagramで音のアーキテクチャ展の写真を検索してみると、スクリーンの目前まで自由に動いてもよさげでした。でもこの日は、みなさん手前の端っこでお行儀よく座っておりました。並んで体操座り、かわいい。暗黙の境界線が張られていた。こういう人々の習性はおもしろい。遠慮がちな横並び。



シャッタースピードを遅めにして撮った写真。加工していたら、フランシス・ベーコンの絵画みたいなテイストの画像ができました。期せずしてベーコンっぽくなり、うれしい。もはや音のアーキテクチャ展とは別物な感じだけど、これはこれでアートくさくてよしとしよう。映像の写真をあんまり滅茶苦茶にしちゃうと怒られそうな予感もするが……。適当にプリントして額に入れて適当なところに出品したら、お金持ちが2億円くらいで買ってくれる夢を今夜は見れそうな予感もする。





音楽が鳴り響く会場なので、ひとりくらい踊っていてもいいと思うのですが、踊る人間は見当たらず。わたしはやたらリズムをとっていました。ささやかな抵抗。あまりリズム感があるほうではないけれど、拍をとると気分が変わるのでよくとります。ふつうに近所を歩きながらでも。家の中でも。落ち込んでいるときでも。頭を抱えながら指先だけトントンやっている。

階段もリズミカル。のぼりもくだりも。いかにも機嫌がよさそうなふるまいですが、そうでもありません。油断したらすぐ打ちひしがれて地面を這いつくばってしまうのでそうならないように。予防です。ジャマイカあたりのステップで。リズムがあると筋トレもしやすい。




音楽と映像と空間に置かれた身体も含む展示だったと思う。じぶんの身体もこの会場においてはコンテンツなのだと思った。しかつめらしい顔で観るのもいいけれど、少しくらい身体が揺れても。だいじょうぶ、たぶん。楽しめました。

DESIGN SIGHTをあとにする。
台東区根岸のドリスという古書店で本を買う。

帰り際に、東京駅のリーゾカノビエッタというお店でリゾットを食べる。店員さんがおそらくイタリア語で注文を伝達し合っていて「ウノ……ウノ……」と連呼するので、宇野さんがバイトで入ったら紛らわしいだろうなと思った。あるいは下の名前がうの。神田うのくらいしかいないか。彼女を見送る。ありがとう。



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