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日記623


カレーとかシチューとかスープとか、流し込める食事が好物です。食べる労力が低減できます。アレンジもできるし、多様な食材を投入できる。ひと皿で野菜も肉もばっちり。もう飲み物ですべての栄養をカバーできればそれに越したことはない。グビッ、プハー。ごっそさん。噛まずに数秒。片付けもコップひとつ。やわなアゴになりそうだけども。そこは得意の歯ぎしりでカバー。自然に食いしばって生きている。あとはガムを噛んでいればよい。ちゃんとした食事はあくまで他人とするコミュニケーションのためのもので、ひとりだったら流し込んで終了です。一瞬である。

こうした考えは無味乾燥でパッサパサなのかもしれません。文化的ではない。べつに対人関係に支障をきたすほどこだわってはいません。シチュエーションによって変更できる。柔軟性、だいじです。やわっこくいきゃあしょう。ひとりで生きているわけではない。実家ぐらし。

ひとり暮らしをしていたときは食事に費やす時間もお金も最小限でした。つまるところ家では寝る。あるいは読書とか、なんら生活の足しにならない歴史の勉強とか。勉強は逃避のためにするものです。あ、納豆を練りながら部屋をぐるぐる練り歩くという謎の儀式には時間を割いていました。

部屋は殺風景で、シンプル過ぎて廃人めいていたと思う。極端にモノが少なく、ペットボトルの残骸がいくつも転がっているだけの気狂いめいた部屋。いまの部屋は適度にものが散らかっている。てきとうさを身に着けたらしい。ようやく健康で文化的な最低限度の生活が身についたか。

「余計なものは視野にいれたくない」とぜんぶ切断してブラインドをかけていた。少なくとも家の中では。ひとりだとその極端な空間構成が可能になる。純粋にひとりになるための籠城をつくりあげていたのだと思う。深海に沈むような感覚が理想だった。目障りな光や耳に障る人間の声が、届かない場所まで沈んでゆける。

しかし家族とはいえじぶんではない他人と同居となると、そうもいかない。初めは耐え難かった。見たくもないテレビの音がひっきりなしにする。したくもない会話につきあう。事前に確保しようと思っていた時間が奪われてゆく。それこそ気が狂いそうだった。家に帰っても他人がいる。ひとりになれない。うんざりだ。

そうやってのたうち回っているうちに、ひん曲がった鋭利な角がゴリゴリ研磨されていったんだと思う。「余計なもの」ってなんだっけ?バカになったのか、適応力がついたのか。広く他者を受け容れるようになったというか。愛せるようになったというか。そのぶん鋭利なじぶんは失った。

20代の「じぶんと向き合う時間」、そして「肉親と向き合う時間」。これはいまのわたしをつくるにあたって欠かすことのできない時間でした。ひとりの暮らしが続いていたなら、世界を塞いでいたままだったのではないか。いまも塞ぎ込みたい気分がないとは言いません。だからこうやってネットに箱庭をつくっている。しかし誰でも入れる箱庭でもある。


これは東京駅の前から撮りました。
ぼんやりしている。
まるで将来の見通し。
でもロマンチックな気もする。
色が滲んだ世界。

ものは言いよう。




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