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日記624 ちょっとなに言ってるかわかんない


疑えないのに、信じてもいない。そんな物語を生きている気がします。もう疑えない。でも信じない。ほんとうに疑えないのか。まだ信じていない。終わらせない。しつこく疑うから。疑える感覚だけを信じている。もはや疑う余地はないのに。前に進ませない。この往生際の悪さ。成仏できない地縛霊の考え方。

終わったものは終わったし、死んだものは死んだ。え、うっそ。まじで?樹木希林さん死んだの?そう言い切るにはまだ早いんじゃない?んな残酷なこと言いなさんなって。いまに死者たちはひとり残らずよみがえる。そして、すでに過ぎたおなじきょうをやり直すんだ。と言って笑いつづける。そんなわけないのに。どっちも残酷か。

「信じること」と「疑えないこと」。真に迫っているのは、どちらだろう。どっちでもないか。信じていることがすべてなのかもしれない。でも「疑えない」のほうがわたしにとっては現実感がある。「信じる」要素はあんまり意識できない。それと知らずに信じている。「信じよう」なんておこがましいとも思う。この日記の過去記事を探ればどこかしらにおこがましいことが書いてあると思うけれど。ひとつ告白すると、明日あたりアンゴルモアの大王があそびにくるんじゃないかと信じている。スキップしながらピクニック気分で地球を滅ぼしにくる。うそ。

こいつは疑えないな、こりゃあかんわ、もう無理、ごめんなさい。と観念して初めて、動かしようのない現実があると直視する。現実感との接触。この現実は、あきらめに由来する。疑えないとなると、それがそれであるほかなくなる。わたしはわたし。ほんとうに?


L字になって寝ているひとがふたり。
ひとりは膝枕。スマホをいじる女性の膝。
いいカップル。

じぶんにとって「信頼する」ということばは、ナルシスティックだなーと思う。じっさいに口にしてみるとわかる。きれいなものをつくろう、見ようとしている。予断がある。なにより大袈裟。それでもいいが、単に「任すよ」と伝えるほうが軽くて自由度が高いかもしれない。一任した結果、汚くてもいい。情が薄らいで、個人的な好みにも合う。乾いたものが好きで。ジャッキーカルパスとか。





さいきん北海道に住んでいる方と話をしました。9月6日の地震で数日間にわたり停電していたとき、冷蔵庫のものが腐るからと近所のひとたちを集めてみんなでバーベキューをしたそう。「めっちゃたのしかったー」と教えてくれた。

いいお話が聞けたと思う。地震直後は、そこらじゅうでバーベキュー大会が開催されていたらしい。いま適当に検索したら、そんなニュース記事もいくつかヒットする。意外な返答に感心するじぶんは、あわれむ準備をしていたようで下品。たのしんだのならよかったー。素直によかったと言う。

会話の細かい反省をひとりでよくしています。
ひとり反省会。



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