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日記625


先日、服とかばんを売ったら9千円もらえました。高く売れたのは父親のかばん。福岡の定食屋で盗まれて川っぺりに捨てられていた革のかばんも売れた。次の使用者がいるとすれば、こんな来歴は知らずに使用するのだろう。それ、むかし川の土手に捨てられたやつです。やさしいひとが警察に届けてくれたやつ。ごめんね。でもきれいに拭いたから。盗まれても戻ってくるやつだから。保証する。気軽に盗難されてくれ。

かばんの過去なんて知らなくていいことです。あたりまえだけれど古着を買っても、その来歴についてはなにも知らない。知らないから買える。じぶんが誕生するまでの来歴だってまるで知らない。知らないから平気で人間みたいなツラができる。そもそもの先祖はもっとニョロニョロしていたと思う。※イメージです。

古着の過去を知ったらたぶん、「他人のもの」という感覚が強まる。身につけるものだからなおさら。他者が混入すると自己の所有感覚が薄まる。もの以外もそう。過去に目を向けることは、なべて自己の執心を手放すことにもつながる。所有欲や支配欲や独占欲が強い人間は過去を尊重しない。平気で公文書や議事録を書き換えちゃう権力者のことだ。キリッ。ヨッ、いきなり社会派!

うん。わたしはなるべく自由がいい。たとえば恋人が過去の恋愛について話してくれても傾聴している。たとえば友人に前科があっても、10犯までならオーケー。11犯からは手に負えない。誰にでもわたしと出会う前の過去がある。わたしが生まれる以前の過去も膨大にある。途中で生まれて、途中で出会う。途中で消える。

ここまでに至る久遠の時間を思うと、自己の身体でさえ「じぶんのもの」なんて胸を張って言えるような世界ではないとわかる。誰のものでもなく生きる。この場所は、少なくともわたしではないものが勝手におっぱじめた。寄る辺ない空間。なのに、わたしからしか見えない。奇妙な世界。


片付けの話がしたかったのに。こうなったらもう片付けで人生をときめかせたいと思っています。数年前に流行った片付け本によると、ものを捨てる判断は「ときめくか否か」で決めればよいそうです。ときめくものばかりに囲まれて生活できれば気分がよくなります。でもこの基準だと、じぶんごと消えてしまいそうな気もする。わたしはわたしに、ときめくか否か。服を整理したので、こんどは書物。片付けには、やりやすい順番があるそうです。おぼえていないけれど。片付けの話はそれほどつづかなかった。



コメント

anna さんのコメント…
「わたしはわたしに、ときめくか否か。」ぐさーっと来る言葉です。
うん。確かにときめかない。どうしよう。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「どんなひとが好みのタイプですか?」みたいな与太話の質問に、わたしが用意している答えは「自分自身が好きなひと」なんです。自分のことを好きでいるひと。少しのあこがれも込みで、そう答えます。

「じぶんごと消えてしまいそう」と書きましたが、わたしはわたしのことがそこまで嫌いではありません。秋の謙虚ルックです。トレンドのスタイルを取り入れてみました。でも「ときめく」まではいかないかなー、と。

クサイことを書くと、自分自身を愛さずして他人に愛されるとも思えません。自己愛のくだらなさも鼻で笑いつつ。わたしはくだらないわたしが好きです。どうしよう。いずれにしろ「どうしよう」は変わりません。

annaさんの孤軍奮闘コメント、その奮闘っぷりは誰もがときめくあこがれの的なので、コメンテーターとしては大丈夫です。秋の改編期もぶじ乗り越えました。一銭の得にもならないけれど。じつはこのブログにコメントをするたびに、正月のおみくじで大吉を引く確率が0.3%ずつアップしています。