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日記627


たまーに書いていますが、通話アプリでしらんひとと話します。ランダムで繋がる。魔が差すとき。いいことばです、魔が差す。カーテンの隙間から魔の光がそっと差し込むとき。部屋中が魔の粒子で満たされるとき。魔粒子。「魔」とはなんでしょう。アンゴルモアの大王が降りてくるような。不意にあやつられるような。わざとまちがい電話をかけたいような。いたずらで、はた迷惑な感覚。

しらんひとは、まっさらなわたしの印象を述べてくれるのでありがたいです。知り合いには言われっこない声の情報をさらっとゲットできる。新鮮。ある程度、付き合いがあって文脈が立ち上がって「こういうやつだ」と初手から決めてかかられるともう、そうなってしまうから。そうでないじぶん発見プロジェクトです。

テレビにうつる知らない人間の印象をお茶の間であーだこーだ言う、そんな無責任な茶の間の声をじかに聞ける感じだと思っています。関係ないひとだから。とても客観的。わたしも相手の印象を感じたとおりに述べる。なんてことない話も貴重に思う。実生活上では、なかなか交わらない人々。といっても「ワシ、どんな印象ですか?」なんておまぬけな質問はしない。適当に話していればしぜんと出てくる。

じぶんの声がどう響くかについてじぶんひとりで知ることは不可能にちかい。もっと言えば、身体動作全般がそうだろう。通話だと見た目の印象を削いだ声のみのフィードバックが手軽にたくさん得られる。受け取った印象に見合うスタイルの試行錯誤ができる。ランダムな会話の形式にも慣れる。人見知りも改善されたと思う。

なんかしらんけど複数のひとから「あまい声」と言われる(男女の別なく)。たぶん耳に味蕾がついているタイプの人類でしょう。いつも蜜壺を持ち歩いていることがバレているのだろうか。辛党のひとには嫌われるので控えたい。あるいはハバネロとかジョロキアとかを蜜に漬けておく。わたしは耳で味を感じないタイプの人類なので、よくわかりません。音しか感知できない。とりあえず甘味を中和するためカラムーチョふりかけを常食にします。

発言内容についても学ぶことはあります。ふつうに話しているつもりなのに「ポエムみたいな哲学みたいなことばっか言う」と指摘されて笑っちゃう。あーおもしろい。まじかよ。そんな印象か。「余裕を感じる」みたいなこともよく言われる。あくまで見かけの印象として。表面上はヘラヘラしていますが内心は必死です。

このように自分自身のことを積極的に知るようになったのは、ここ数年。わたしはわたしを知らずにぼんやり生きていたなーと痛感することしきり。「知らずに」というよりも、きっと避けていた。きっちり知ればコントロールができるし、じぶんに見合う場所を探せる。

誰とでも自律的な関係を求めてしまうように思う。女性だと誰彼かまわずあまえたいひともいるらしいが、「あまえ」には応じないから一方的に切られる。もしくは相手のモードが変わる(豹変するからビビる)。直接は言わないが、できる限り目線をおなじくして話しましょうという態度を無意識にとっているっぽい。頼るのはてめえだけだ。のらりくらりと笑っていても、態度は鮮明だった。どんなに変態なおっさん相手であれ、中学生が相手であれ。いっときで終わる投げやりな対応は誰にもしない。他人を使役したくもない。いっときで終わるんだけども。

最低限の「社会性」を途切れることなく意識している。誰に見せてもいいように。たぶん、つまんないやつだ。そういや、いつも突っ立って電話をするところからも気を緩めない頑固さがわかる。バカな冗談を飛ばしても緊張の糸は細く張りつめている。他人の前ではあんまり油断できない。物腰と発言はゆるゆるです。しかし核となる態度は毅然としたところもあるのだと気がつく。

身近な人間にさりげなくこんな話をすると「知らないひととなにを話すの?」と言われる。話しことばには、そのひとの生きている日常が色濃く反映されていると思うから、他人のことばのセレクトを聞くだけで十分おもしろい。多くの場合、1対1であるところもいい。1対1がもっとも話しやすい。3人だと余るし、4人以上の輪だといてもいなくてもおなじ透明人間になる。忍術です。そして帰りたいモードのスイッチが入る。

数ヶ月前、さいごに行った多人数の飲み会で「集団での飲みは(じぶんにとって)無駄」という確信を深めました。いまどきの若者っぽい。




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