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日記631


東京大学出版会のPR誌『UP』を図書館で読む。2018年6月の548号。社会学者の佐藤俊樹さんが大河ドラマ『おんな城主 直虎』の森下佳子さんによる脚本を評した記事に、こんな一文があった。


『UP』だから、「朝ドラ」も解説したほうがいいかもしれない。


佐藤さんの『UP』読者層イメージはそういう感じなのか。テレビはあまりチェックしないような人々。世間的な話題にはさほど興味がないような。「朝ドラ」がわからないなんて大袈裟に見積もり過ぎな気もしつつ。そうなのかー。

と思いきや、翌7月の549号では言語学者の川添愛さんが読者層など関係ないとばかりにかっ飛ばしておられた。連載「言語学バーリ・トゥード」の2回目。

タイトルは『AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』。題からダチョウ倶楽部のネタを援用してくる戦闘モードである。掲載媒体が『UP』だからといって遠慮しない姿勢、さすがバーリ・トゥードの名を冠すだけある。須藤靖さんの連載もわりと自由だったけれど、もっと自由な、それも獰猛なバーリ・トゥーダーがあらわれてしまったようだ。そもそも連載の第1回目からラッシャー木村の「こんばんは事件」についてだった。7月もまた期待に違わずぶっかましてくれる。


私はこのところ「来年正月の芸能人格付け番組にまたYOSHIKIが出て、控え室待機中に私の本を読んでくれますように」と願をかけている。あの「YOSHIKIが番組中に食べまくったおかげでバカ売れしたお菓子」の二匹目のドジョウを狙っているのだ(以下略)


などといきなり言われたところでわたしでもなんのことやらわからぬ。ダウンタウンの浜ちゃんが司会をつとめる格付け番組は何度か見たことがあるけれど、YOSHIKIの話はまったく知らなかった。猛省しなければならない。さすが東京大学出版会のPR誌『UP』だ。多様な情報を知悉していなければ読み解けない。


本日ご紹介するのは、2017年12月に出版した『自動人形の城』という本である。この本は、今流行りの人工知能とか、言葉とか、まあ、そういうものについて扱っている。……この時点でもう書くのが辛くなってきた。もう少し踏ん張って紹介すると、この本のテーマは「意図」である。こう書いた瞬間に私の脳内のいかりや長介が「今日のテーマは、イト!」と言い、スクールメイツに囲まれたドリフの五人がけだるそうに踊り始める。おなじみ「もしものコーナー」に移る前に、我に返らなくてはならない。


このネタは世代的な問題でわからぬ。なるほどドリフの。なにせじぶんが生まれる前のことはすべて見過ごしているのだ。なんて愕然とする事実だろう!地球単位で数えると46億年は見過ごしているのに(宇宙ならもっとだ!)、そんな無知をふだん気にも留めず、平気で生きている。わたしたちはなにも知らず、時の先端にぼんやりと浮かべられた存在。こりゃそうとうがんばらないと追いつけない。地球に追いつけない。なんでも勉強である。

アメリカのサマースクールで同じ部屋の友人Mちゃんと交わした合図のお話も勉強になる。防犯上の確認としてノックのあとドアの前で志村けんの「アイーン」をするように決めていたそうなのだ。そして川添さんはこう述懐する。


もちろん、中の者からすると、覗き穴から見た時点で外の者の顔は確認できるので、外の者が「アイーン」をやる意味はない。だが、私とMちゃんはサマースクールの期間中その取り決めを忠実に守り、外から帰ってくるたびに、部屋の中の友人に向かって「アイーン」をやり続けた。まさに、若さとは愚かさである。


確かにそうだ!特殊メイクで変装でもされないかぎり、顔を覗けば事足りる。わざわざ「アイーン」で自己を証明する必要はなかった。川添さんとMちゃんのおかげで、もう誰もおなじ過ちは繰り返さないだろう。人類がもはや身分確認としての「アイーン」を必要としなくなった歴史的瞬間である。アイーン is over。『UP』の読者は「アイーン」を必要とするタイプの人類ではないと思うけれど。

まったく読者におもねらないストロング・スタイルが誌上に映えている。さいごに、佐藤俊樹さんの気遣いをあざ笑うかのような飛ばしっぷりが以下の一文である。


しかし、別番組で熱湯風呂ではない別の何か(たとえばクリームパイを持って待ち構えている人とか)を前にした上島氏が「絶対に押すなよ」と言った場合や、ザキヤマやフジモンなどの芸人が上島氏のネタをパクっている場合にどうすべきかAIに適切に判断させるには、より複雑な知識と判断が必要になるだろう。


失礼ながら「朝ドラ」の解説にわざわざ字数を割く佐藤さんが哀れにも思える。この文章の背景を十全に理解するには、アメトーーク!の「パクりたい芸人」について解説が必要なはずだが、そんな注釈はいっさいなし。その意気やよし。

つまり人間でも物事の理解にはありとあらゆる「複雑な知識と判断」が必要なのに、ましてAIなら言わずもがなである!というメタメッセージまで読み込める仕様になっている。あるいは『UP』の読者ならアメトーーク!くらい毎週チェックしているだろうと踏んでの所業か。

とかく容赦がない。ダチョウ倶楽部から芸能人格付けチェックからドリフからアイーンからアメトーーク!までぶっこんで自著を紹介する。ついでに「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」やtwitterで見かけたつぶやきも小ネタに使う。すべてを武器にしてぶん回す!まさしくバーリ・トゥード(なんでもあり)スタイルそのものを体現しているといえよう。

わたしの引用と感想だけだと川添愛さんがいったいなんの話をしているのかさっぱりわからないけれど、すべての道はご著書の『自動人形の城』(東京大学出版会)、ひいては言語学につながっているのである。

と、さんざっぱら「言語学バーリ・トゥード」について書いておいてなんですが、7月の『UP』でもっとも味わい深く読んだのは河原創さんの「甘納豆と系外惑星」でした。

研究における「科研費の書類には書けない本当の動機」は、おそらくどの研究者にもある。このテーマで先生方のインタビュー集をつくりたいほどだ。実益では測れない、ごく個人的な物語のほうが広い訴求力を湛えていると思うのだけれど。ためにする部分、ためにならない好奇に貫かれる部分。両輪を知れるといい。


系外惑星は「人の役に立つ」ものでもないけれど、人々の心を豊かにするかもしれないものの一つだ。


小学生のころに買ってもらった青い自転車の記述から始まるこの記事。そこから記憶の襞が織り込まれる。横浜の下町、祖母にもらった色とりどりの甘納豆の由来と、世界が広がっていくという感覚。あいだに挟みこまれる研究生活のあれこれ。ハリケーンがめったに上陸しないハワイで2回もハリケーンに遭遇したこと。酸素の薄い山の上でむずかしい統計学の議論をふっかけられてまいったこと。自転車に轢かれCTの「逆問題」を自らの脳で体験できたこと。ぜんぜんちがう出来事の連なりが、たったひとつの好奇心で貫徹されているような、不確かな系外への確かなまなざしを感じる。


以上、読んだものの感想おわり。



10月24日(水)


ためしてガッテンで「ユマニチュード」という介護のメソッドが紹介されていました。身体への触れ方、速度、距離感。基本的な、わざわざ学ばずともできそうなことだと思ってしまう。わたしは不安が強い性格だから感覚としてわかるのだと思います。「ちがう人間だ」という認識のもと接していれば。そっと。クソみたいにあたりまえのことです。

ためしてガッテンでやっていた内容はたぶん「ユマニチュード」の一部、初歩の初歩なのでしょうが、相手の挙動を観察して思考すればしぜんと身につくのではないかと、疑問でした。たとえば「間違いをなおさない」とか。いちいち正していたら逆にたいへん。

うちの祖母はロシアのことをいまだに「ソ連」というけどべつに正しません。むしろかっこいい。亡くなった祖父が生きていると言い出しても、その前提で話をつづけます。さらに先が聞きたい。あなたのリアリティを読みたい。介護のためだけではない他者への接し方として。

ことし岩波現代文庫に入った保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を思い出します。アボリジニの長老が語るドリーミーな歴史観を聞きとり、読むこと。普遍化され得ない局所的な知識とのギャップ越しのコミュニケーションを試行する。実証研究を否定するわけではない。ただ「それ以外」の歴史世界も存在するということ。


記憶論や神話論は、アボリジニの人たちが実際に経験したという、その経験を無毒化してしまう。経験の無毒化とはどういうことかというと、要するに、「それは事実じゃないけれども、でも、それはそれとして重要ですよね」って言って、とにかく掬いあげるわけですよ。事実じゃないんだけれども、何かそこには大切なものがあるはずだと言って掬いあげる、あるいは、尊重する。でも僕はこの、「掬いあげて尊重する」という行為の政治学を問題にすべきだとおもいます。


祖母の話を聞くことは、「愛情」も「尊重」も「事実」も「介護」さえ関係ない。客観的に間違いであろうが、ひとりの人間が生きた消え入りそうな時間が目の前にある。それだって真実の一端なのではないか。世界の認識の仕方が根本からちがうのだ。わたしは解釈をほどこさず、そいつをただ目に留めておきたい。

それ以前に、誰のどんな語りも気休めだろう。ケースに依るが「事実」が必ずしも高級なわけではない。ひとつの語り方に執着していたら話が通じない人間になってしまう。気休め(=語り)の方法は無数にある。それがたまたま素敵に美しいこともあれば、そうではないこともある。このブログも気休めにはちがいない。






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