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日記633



本作には、戦前の渡辺一夫訳、戦後の齋藤磯雄訳と歴史的名訳が二種存在するものの、共にその敷居は高い。そこで新訳は、たとえばエウォルドがアリシアの肉体と精神のアンバランスを嘆く箇所は、「私の悟性を瞠若たらしめ、不安ならしめたものは、(中略)無脈絡」(渡辺訳)、「私の悟性を狼狽せしめ不安に陥れたものは、(中略)異質無縁」(齋藤訳)に対して、「ぼくは(中略)ミス・アリシアの<肉体>と<魂>はバランスがとれていないのではないかと怪しみ、また心配しました。でも、そうではありませんでした。(中略)バランスなど最初から存在しなかったのです」とした。難解な原文を咀嚼し、くだいて訳してある。解説(海老根龍介)も親しみがもてる。


ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』(光文社古典新訳文庫)、仏文学者の宮下志朗さんによる書評@YOMIURI ONLINE

とても読みやすそうな新訳。この引用だけでも、親しみは抜群です。きっと読者の負荷は少ないでしょう。するするいけそう。手に取りやすくていいと思います。なんだろ、でもエロさが抜けてしまったような。秘教的な雰囲気みたいなものが……。

「好みの問題」以上のものはありませんが、「たらしめ」とか「ならしめ」とか言われると興奮するの。声に出して読みたい。「瞠若たらしめ!不安ならしめたものは!無脈絡!」。フゥー!すごいテンションあがるー。対して新訳は、よくわかる。意味はとりやすいけれど、テンションがあがるかというと、たらしめてならしめられたほうが個人的にはブチ上がります。かっこいい。「狼狽せしめ!不安に陥れたものは!異質無縁!」でもいい。けど渡辺一夫訳のほうがリズムは好きです。

『未来のイヴ』はどの訳も読んだことがないのでなんとも言えませんがリラダンという作家のイメージはちょっと耽美な感じ。美に耽ることは容易ではなく、しかもけっして褒められたものではない。だから「なにかいけないものを読んでいる」という、少しの背徳感がほしい気もします。不健康な難渋さがいい。ハッタリというか、ケレン味もほしい。

純粋に好みの問題です。
ほかで言うと、たとえばハーマン・メルヴィル『白鯨』。
物語の冒頭。


Call me Ishmael.


何冊も訳書はありますが、「私の名はイシュメイルとしておこう。」(阿部知二訳)よりもだんぜん「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。」 (田中西二郎訳)がわたしは好きです。グイグイ来るタイプのIshmael。『白鯨』といったら、まかりいでてほしい。まかりいでないと『白鯨』じゃない!ぐらいの感覚です。というか新潮文庫の田中西二郎訳しかさいごまで読んでいないせいもあります。そんなに何冊も読めません(しかし部屋には何冊もある)。


 おれは白く泡だつ水跡を、うしろに残して進む。どこを航海しても、残るものは蒼ざめた海と、それより蒼ざめた波の頬ばかりじゃ。もの欲しげな波どもが、おれのゆく道に横あいから雪崩れかかるが、かまうことはないわ、その前におれのほうが先へ進むわ。


いま、てきとうにひらいた第三十七章の始まり。田中西二郎訳。ごつごつした訳文かもしれない。無骨。ゴツいのが好きなのです。「かまうことはないわ、その前におれのほうが先へ進むわ」。エイハブ船長の惚れさせ名言です。これはさまざまなシチュエーションで使用できそう。

たとえば、友人と遊ぶ約束の日付を1日早くまちがえてしまったとき。「それ、明日だよ?」と指摘された場合の返信。「かまうことはないわ!その前におれのほうが先へ進むわ!」。そう、かまうことなく先へ進めばよいのです。まちがいなど気にするな。迷わず行けよ。行けばわかるさ。待ち合わせ場所には誰もこないと。しかし誰もが惚れることまちがいなし。完全にキマっています。

「友人と」にかぎらずビジネス面でも、約束の早とちり全般に使用できそうです。さらに取引先の相手が元ネタをわかってくれると、距離感が一気に縮まる効果まで期待できます。わかってもらえないと、ただのキマっている奴になってしまいます。諸刃の剣であることを理解してからご使用ください。

あるいは一世一代のプロポーズを断られても、「かまうことはないわ!その前におれのほうが先へ進むわ!」と言ってごまかせば、かっこ悪いふられ方にはなりません。大江千里が歌い出す前に、奴の口をふさぐのです。かっこいいふられ方をするのです。「少しはかまえよ!言ってきたのお前だろ!」って怒られそうだけど。気にするな。孤独の波をかきわけてゆけ。

なにかに待ちくたびれたときにも「かまうことはないわ」です。朝をかまうこともなく、暗い時間からおれのほうが先へ進むわ。朝より夜より地球の自転よりも、おれのほうが先へ進むわ。このように、とにかく先へ進みたいとき、現状に甘んじていたくないとき等々、人生のあらゆる場面で使用できるエイハブ船長の名言 by 田中西二郎なのでした。

話が逸れました。でもとくに話したいこともないので逸らし放題がかえってよいでしょう。えっと、てきとうにまとめると、時代に合わせて理解できるようにことばを塗り替えることはたいせつですが、エロいことばづかいもたいせつにしたいというお話です。内容に加えて、要はスタイルです。どんなスタイルにエロを感じるかは、千差万別だけれど。

多少わかんなくても、エロければわたしは読んでしまいます。ここで言う「エロ」は広く「魅了されるもの」ぐらいの意味です。あまり理解偏重で生易しい文章だと、逆に敬遠してしまう……。それこそ、「おれのほうが先へ進むわ!」と思ってしまいます。

先へ進めない文章が好きなのかも。発想がまるで追いつかなかったり、じぶんにとって新しかったり、こむずかしかったり、感動しきりだったりすると先へ進めない。すなわちエロとは、先へ進ませない力です。瞠若たらしめ!不安ならしめ!とずっと言っていたい。時間を止めてくれ。

「エロは時間を止める」を展開してみると、若いころから晩年まで変わらない夫婦関係なんてものがあるとすれば、ふたりはエロいままだからかなと思う。年老いても変わらぬ魅力をおたがいに見つけ出して、かつ発揮できている。時間の止まった人間関係。そんなものがあるのかはしりません。友人同士のほうが想像しやすいか。わたしがなにかに魅了されるとき、主観的な時間はいつも止まっていると思う。気づいたらもうこんな時間。

とりとめのない考えが浮かんでは消える。


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