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日記635


「神さま」なんてことを書くと引いちゃうひとが多いらしい。べつにかまわない。いちおう付言するとわたしの場合は、人間とか社会規範とか一般常識とかお国が敷く法律とか共同体の倫理とか、たとえばそういう変化があってとうぜんのものへの過信(盲信)を避けたいから、ではじぶんは最終的に何を信じて何に従うのかといえば「神さま」とこたえるほかはないのです。「じぶんを信じる」という方もいます。でも人間って脆いよ。

ともかく、まず「人間への不信」から端を発しています。「不信」というと治療の対象にされそうですが人間は変化するし、していいのよ。縛れない。縛ろうとも思わない。「不信」はまちがえました。積極的に信じていないわけではない。でもぜんぜん、裏切られてもいい。親友だと思っていた奴がいきなり豹変して背後から鈍器で一撃くらわしてきてもかまいません。「ああ、アイツも人間だ」と思うだけです。吉田拓郎の「人間なんて」を歌うだけです。人間は“そういうもの”です。

わたしたちはナマモノです。そのうえでわたしが信を置くのは、ナマモノから遠く隔たった変わらない普遍のひとつの想定としての「神さま」です。どんな共同性にも依らない。わたしひとりを立たせるためにある一本の背骨のごときもの。そんなリアリティとしての、「神さま」。なのでした(きょうのわんこ風に)。

自己も含めた「人間は脆い」と、このひとことがどこまで深く通じるか、あるいは通じないかで「神さま」を導入することへの見方が大きく別れると思う。ただ一定の留保は置きつつも、なるべく他人を信じています。正確には、信じたいと思いあぐんでいる。すっきりしない場所にあえてとどめる。

いっぽう、駄々っ子みたいでどうしようもないけれど「誰にも従いたくない」という気持ちもあって。他人の話はよく聞けるほうです。理解する力も人並みにあります。しかし聞いたうえでどうするかは、わたしが決める。負うのは神さまから預かった背骨の責任だけだ。そんな思いは否定できません。意に反することもしなければならないのはわかります。めんどくさいひとみたいですが、現世的なさしたる主義はないのでわりとなんでもやります。神さまうんぬんは、じぶんのことばを見失わないための方便です。

たまに「スピリチュアル」などと言われるけれど、個人的には、人間とかお金とか社会制度とか所属組織とか集団とか、なんかそういうあやふやなものを信じきってしまえるほうがよほど霊的な感受性が高いと思います。けっして悪いことではありません。わたしはそんな人間ちっくなものに、儚さや脆さを感じとってしまうってだけ。それはそれとしてすばらしい。尊いことです。おかねほしす。





姿勢の改善をしています。ストレッチ。プラス、猫背をなおすにはイメージが重要だと思う。じぶんは、呼吸を意識しながら体内を「空気の通り道」とみなします。そうすると自然に背筋が伸びる。身体を「一本の管」とみなしてそこへ空気を循環させるような。「ナマモノ」と上述したように、物質として身体を意識します。乗り物というか。モノです。それで変なうしろめたい自意識を飛ばす!「じぶんの身体」ではなく、空気と血液が通るだけの管。

身体の大きさを正確に見積もることも重要です。
わたしはじぶんが思っているより肩幅がある。
股関節の硬さもどうにかしたい。





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