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日記639



ぼく2歳のころ、なにもできなかった。


テレビをつけたら加藤一二三さん(78)がおっしゃっていました。いわゆるひとつのひふみんの名言です。こう抜き出すと悲壮にも感じます。忸怩たる後悔の念に苛まれている。畜生、じぶんがなにもできなかったせいで……。わたしも2歳のころはなにもできなかった。2歳のころの無力感を思い返すと打ちひしがれます。なんであんなに無力だったんだ。気持ちはおなじだよ、ひふみん。

もちろん通常の軽快な会話の流れの中での発言ですが、あえて説明せずここだけ単品でいただいておきます。おいしいところだけちぎりとる。文字化して標本のようにディスプレイの中へ保存しておく。加藤一二三(78)の人生の瞬間を織りなした細切れの部分。


11月9日(金)


雨でした。夜には止む。雨上がりの暗がり、そこかしこで水滴の粒が灯に照らされちいさく光る感じが好きです。冷たい季節に映える。と、こういうことを天然で言うから「ポエマーみたい」などと揶揄されてしまう。

じっさい、となりを歩いていた友人から半笑いで言われたので「雨粒のこのきらきらしさに気持ちを向けないなんて地球にいる意味がない」と大袈裟に言い返して笑う。わたしは地球を満喫するから、あなたは金星に帰っていいですよ。さもなくば清少納言を思え。


彼女だって「春は曙、やうやう白くなりゆく山際……」というような、たとえば、春になってふと漂ってくる沈丁花の香りや、夜、家に帰るときに何ヶ月も縮こまって歩いていた同じ道を、三月のある晩にゆったりと体を伸ばして歩いていることに気がついたときの喜びや、そういう、季節の小さな変化をしゃべる相手が何人かいたら、「生まれる時代を間違えた」とは思わないで済んだことだろう。
 語る、話す、しゃべる……というのは、気持ちを対象に向かわせることで自分を前に出すことではない。


保坂和志『途方に暮れて、人生論』(草思社)より。きれいなものがあれば「きれいだ」とふつうに言い合えればいい。日常の話です。それを「ポエマー」だと感じたのなら、あなたにとっての詩は日常にありふれているということです。わたしにとっての詩はそのかぎりではありません。

ありもしない他人の自意識をあげつらっておもしろがるのもいいけれど、もうそんな気分じゃないんです。飽きた。地球の男に。わたしと契約してポエマーになってよ。お前もポエマーにしてやろうか。そのあと蝋人形にしてやろうか。

なんでもいいから、もっとあなたが気持ちを向けているものを教えてくださいよ。ラヴいやつプリーズ。ベタでいいんだよ。と、これらは陰口ではなく面と向かって(平和的に)伝えました。本の引用はしていないし、脚色しまくりですが……。陰口は信頼を損ないます。たとえそれが許される空気であっても。

しかし、かくいうわたしもなんでもない景色を褒めそやす友人(男)に「口説いてるの?」などと返してしまったことがある。いま思い出した。いや口説いてたんだと思う。まあやぶさかでないよ。

家路の途中「ねえねえおかあさん、ここであそぼ!」と墓地ではしゃぐこどもがいた。お墓おもしろいよね、迷路みたいで。だけどだめみたい。それが地球のルールらしいよ。まだこどもだから地球歴が浅いもんね。

みたいな日々。




コメント

anna さんのコメント…
枕草子好きです。あの時代に、普通のことを書き表す感覚すごいと思います。
とは言え、大人になるまで、「清・少納言」ではなくて、「清少・納言」と思い込んでましたが。
nagata_tetsurou さんの投稿…
いまもたぶん「普通のこと」をすなおに書けるひとはとても少ないと思います。「こんなこと書いたってつまらない」と自己検閲が入ったり、大袈裟でわざとらしくなったり、自意識過剰だったり……。ぜんぶじぶんのことなんですけどね。

じゃあ、annaさんの思い込みに対抗してわたしはいまから「Say Show Nüguns」だと思い込むことにします。清少納言とはセイショウヌゥガンズの漢字表記であり、平安時代の作家ではなくSystem of a Downの新曲だと思い込みます。これでわたしの優勝です。

参考:https://www.youtube.com/watch?v=x-EaJZpNNgY