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日記640


ラップと動画をつくったので載せておきます。





あんまり考えないでつくるといいのかな。意味ありげですが、意味はそんなにありません。勝手に妄想することは自由だけれど……。どうしてもやりたい一発ギャグを思いついちゃった感じです。ええ。「お前の母ちゃんお騒がせセレブ」と言いたかっただけです。

人間は油断すると意味のあることをしてしまいます。より正確には、意味があるとされていること。だけをやるようになります。あらかじめ流通している意味の体系をなぞってしまう。意味や価値が、かたちづく以前の領野にはわざわざ踏み入らない。意味があるとされる存在になりたいのです。共同体とつながれる、頼られる、頼れる。価値があるとされているものを目指すこと。それはそれで生きるうえではたいせつなことです。

この意味不明なラップもいちおう既存の方法をなぞってはいます。まったくあたらしいものはつくれません。パーフェクトに無意味なものもできっこない。そんなもの認識できない。既存の方法、でも伝わる射程のレンジが、広い共通了解の領分にまでは届かないラップだと思う。届くのは、せまいせまい細道を渡ってくるひとにだけ。このブログだってそうかも。

たとえ広く通じなくとも、たったひとりにとって、たったひとつだけの意味があればいいと思う。じぶんだけでも。しかし、いちおうyoutube経由で全世界に公開します。さみしいからな!

近日中にジャスティン・ビーバーがtwitterでおもしろがってくれることを期待しよう。そしてブレイクしたあかつきには紅白で歌うんだ。大晦日にみんなで、「つかれた、もうねたい……」とか「もう!こん!な村!でも!こん!な村!ヒエー!」とか。さいごは哀しげにうなだれ、絶望し切った様子でこと切れる。こん、な村……。

いや、こんなん広まったらわたしがいちばんどん引きするだろう。はっきりいって気持ち悪いです。やめろジャスティン。その指先外交をいますぐやめろ。気持ち悪いのはわたしだけでじゅうぶんだ。もうこりごりなんだよ。わたしの気持ち悪さは、わたしが一手に引き受けて食い止める。ここはわたしに任せて逃げろ。この遺伝子は誰にも受け継がせない。みんな気持ちよく先に行け。わたしで終わらせる。ここが末代。


数日前、横浜に行きましたとさ。祖母と。ペースを合わせるため、つねにすこしだけうしろを歩く。祖母のルーツだという場所をいくつかめぐる。横浜からすこし離れたところ。もちろん戦後まもなくのおもかげはない。どこもかしこも。それでも見てみたいと言う。もといた場所。帰巣本能のようなものだろうか。

たとえば平成元年からの30年間と、昭和20年からの30年間の変化の仕方はまるでちがう。祖母の世代は、変化が確信できた世代だと思う。わかりやすく、あきらかに変わった。そしてこれからも変わるのだろう、と。戦前に生まれ、それから戦後を生きて、ほとんどなにもかもが目に見えて変わったのだと思う。わたしの生きた平成の変化は、それほどのものではない。


  平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。平成の時代を輝かせた「平成のスター」である安室奈美恵や小室哲哉は、平成が終わる前に消えようとしている。平成は短命だが昭和は長い、というのではないだろう。昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている――としか思えない。


橋本治がPR誌「ちくま」の連載で書いていたこと。Webちくまで全文読めます。うちの祖母も、「終わり」が見えずにさまよっている。そういう横浜ツアーだった。人間、みなそうといえばそう。昭和だの平成だのは便宜に過ぎない。「終わり」はわからない。さいごを悟れるのならわたしはとっくに終わっている。永遠に途中をさまようことが生きることだろう。

「終わり」は主体的に為される性質のもの。ほうっておいたら時間はつづくから。なんでもいいけど、なにかを終わらせるにはたいへんな意志の力が必要となる。そしてそんな「意志の力」は、人間の持ち合わせるところではない。偶然やタイミングにも依る。人間はそこにちょこっと乗っかるだけ。最終的には神のみぞ知る。

たいがいの物事は、とうのむかしに終わったと思いきやいまだに潜伏している。歴史は刷新されてゆく。いくつもの時間が“いま”に潜伏している。安室奈美恵だっていまだ潜伏中だ。ってこんなこと書いたら怒られるか……。

横浜散歩、楽しかったです。




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