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日記642


信号待ちに暇だから写真を撮ります。しゃがんで居並ぶヘッドライトの光を撮っているとき、たまたまおっさんが通りがかって残像が写りました。うーん。悪くないよ。ありがとう。

ところで、信号を待っているあいだみなさま何をお考えなのでしょう。たいがいの人はじーっと突っ立っています。何も考えていないのか。わたしは腿上げをしたり写真を撮ったり踊ったり行き交う車を目で追って動体視力を鍛えたり檻の中の動物のようにウロウロしたりキョロキョロしたり飛んだり跳ねたり、かなり充実した待ち時間を過ごしております。信号待ちですら楽しむ、これが真のリア充です。

でも友人といるときなどはわたしもじーっとします。まるで金縛りにあったかのように。わたしだって信号待ちで踊り出すような気持ち悪くて落ち着きのない人間といっしょにいたくはありません。疲れちまうよ。目障りだし。止まってろ。誰かといるときは、その誰かの目や意識も少しだけ乗り移ります。横並びの意識。

ひとりの場合なら、べつになにもかもがどうでもよいので踊ります。ほんとうは誰かといたって「ひとり」なんだけど。なにを気にしているのでしょう。だって恥ずかしいしー変な奴だと思われたくないしー。そもそも変な奴じゃないから。


経済的に貧しくなり破綻するご家庭を間近で見ています。現代における「家族」のそもそもの始まりはどういったものなのでしょうか。きっかけからお金でつながれた関係ならば詮ない話かもしれません。カネがなくなればさようなら。それが合理的な判断というものでしょう。

いまのところ「家族」というユニットが立ち上がるためのきっかけは、あんまり制度化されていません。「自由恋愛」などと呼ばれます。『万引き家族』のように犯罪でつながれていてもいい。いいよ。適当にやれ!って感じ。もともと社会システムの外にある不合理で身勝手な感情に端を発するのであれば、合理的な個人の利にとらわれることなくお互いのあいだにあるお互いのためだけのクソ身勝手さを貫徹して過ごすことが理想だと思います。不合理ゆえに吾信ず、みたいな。「身勝手の一貫性」でつながる。

家族をつくること、みずからも家族の中に生まれたこと、広く人間とつながること、こどもを産むことなどに「いい」も「悪い」もありません。わたし個人は、そのことについて価値判断はしない。個人的な感覚では「なんかしらんけどそうなっていた」というだけです。なんかしらんけどそういう種類の動物はそういうことをする。特別な意味付けや付加価値を強く求めすぎるとむしろ破綻しやすいのだと思います。

でもなー。世間体や生活水準や住む場所や仕事などの対外的なもろもろを犠牲にしてもつながれる関係なんてないのかも、とも思います。貧しくなれば、まずはじぶんのかわいさを優先させてしまう。自己を守るために。それが生き物の基本だし、生き延びるためにはそれでよいのです。無理して共倒れすることもない。夢を見すぎです。ここは現実です。え、うそだろ、ここって現実だったの?

じっさい友人に言われました。「ここは現実ですよ」と。そしてじっさい「まじでー初めて知ったーすごーいみんなほんものーわーいほっぺたつねったらいたーい」と棒読みで返事をしました。しかしわたしはまだわかっていません。現実ってなに。ふつうってなに。常識ってなに。んなもんガソリンぶっかけ火ぃつけちまーえ。



といっても死んだ目で確固たるリアルをつかまえようといちばん必死なのはわたしだという自負もある。余計な判断を差し挟むことなく多くを眺めていたい。あらゆる価値観は夾雑物。壊れるものは、壊れるがままにしておきましょう。つめたいなー。つめたくないよ。なにを言ってもどうにもならないものはある。


どんなふうに
その人が去ってゆくか
それがすべてを
あなたに告げる


ルピ・クーア『ミルクとはちみつ』(アダチプレス)p.143。
翻訳は野中モモさん。

できるだけあたたかなあきらめと、役に立たないやさしさをもって壊れたものも愛しています。いいよ、だいじょうぶ。と言ってすこし泣きながら笑う。わたしはささやかな添え物になりたい。あとから「無責任だなーじぶん」と思って、また笑った。


ステファン・W・ポージェス著『ポリヴェーガル理論入門』 (春秋社)という本を読んでいます。翻訳、花丘ちぐささん。トラウマやPTSDなどの治療過程にもちいられる理論らしいです。「ヴェーガル」というのは迷走神経と呼ばれる脳の神経のこと。「ポリ」は複数の~という意味。つまり迷走神経群の働きに関する理論。

ぱらぱら見た感じ、あたまでっかちな理性的なアプローチよりも身体的に「感じる」ことを主眼にした理論みたいです。いきなり「人間」ではなく、まずは爬虫類や哺乳類のところから人間を洗い直して組み立てられたような進化生物学ちっくなセオリー。個人的な生命体としての実感に沿っています。わしら、「人間」以前の時代のほうが圧倒的に長いんだからね!

「人間的」である前に、哺乳類的であったり爬虫類的であったりする部分も考慮しなければ。すべて総合して「人間的」になる。このブログには何回も書いていますが、しょせんわしらも生きもんなんです。でも器質に還元するばかりでは「わたし」が始まりません。

この本を家に持ち帰ったきっかけは、さいごのほうにあった“「エセ道徳のベニヤ板」を剥がす”という表現でした。ピンとくる本はまず開いて、パンチラインの有無で読むかどうかを選びます。そして、


一生を通じて、人間は他者に依存しています。p.238


これもいいパンチラインでした。まだきちんと読んでいませんが、無駄なものをひっぺがし「わたし」と「あなた」そして「社会」を回復するための理論であるよう思う(予想)。ちがったらごめんなさい。

みずからの安寧のためにまず身体で「感じる」ことへと目を向けるアプローチは、おそらくこれから大きな流れとして根付いてゆく傾向にあるのだと直観します。理性だけではとりこぼすものがあまりにも多い。

わたしの直観が当たる確率は経験上ハーフハーフなので半信半疑で受け取ってください。でもすでに、一部地域では根付きつつあるのかな。序文に「この本は非常によく売れ」たとありました。海外の事情はわからないけれど、地域によっては共通認識になりつつあるのかもしれない。



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