多くの人間が集う場所では平均化が起こりやすいそうです。意識がおなじ方向に均される。集団極性化と言います。集団極性化には大きく2種類、リスキー・シフトとコーシャス・シフトがあります。尖った方向か慎重な方向、に平均化がなされがち。「平均」といっても真ん中ではなく偏っているところがミソです。「同一化」とか「画一化」とかいったほうがわかりやすいか。なに、いきなり心理学の講義ですか。いいえ、いつもの個人的な感想文です。
なにかにつけ人々が集団で噴き上がっているときには、そのことについて自分が賛であろうが否であろうがいずれにせよ「真ん中がぽっかり空白になりがち」ということを肝に銘じておきたい所存であります。対立や矛盾のあいだでぼーっとできる幅が狭くなる。油断していると「お前はどっちなんだ?」と糺される。友か、敵か。対立する点と点の論理はつなぎようがない。でも感情くらいつなげるような見方があればいいと思う。どうしても選べというのなら「お前の嫌いな方だ」と答える。
「真ん中」、そこにありうべくはユーモアを湛えた姿勢ただひとつではないかとわたしは思います。「ユーモアは気分ではなく、世界観だ」とたしかウィトゲンシュタインの『反哲学的断章』にあった。笑ってごまかすのではなく、一個の世界観、現実的なものの見方としてのユーモア精神です。
ユーモアがウィットつまり「機知」と別物だということは広く知られていない。機知は、自分が知的な高みにいると構えたうえで相手なり対象なりを見下ろして繰り出す、言葉のパロディ(もじり)である。だから機知には、多かれ少なかれ、高慢の気が漂うのである。
ユーモアにあっては、自分を知性の高みにおくのではなく、徳性の面で高きに至りたいという願望がまずある。しかし高潔の士にはなかなかなりえない。その理想と現実のあいだのギャップを表現するのが諧謔(ユーモア)ということで、したがって滑稽には、一つに自分自身を諷刺するという調子がこもるし、二つに、ペーソス(哀切)の感が漂うことになる。
プチ鹿島さんの『教養としてのプロレス』(双葉新書)p.170より、西部邁の文章の股引。ユーモアの定義として「理想と現実のあいだのギャップを表現する」という部分が個人的にとてもしっくりきます。自分自身への諷刺と、哀切の感というところも。
プチ鹿島さんは、ここからじっさいの事件を描いた若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を引き合いにだして、彼らにはユーモアが足りなかったのだと筆を進めます。
たとえばもし、あの集団生活でうっかり屁をこいてしまった同志がいたとしたらどうだろう。そこに起こるのは笑いではなく恐怖に違いない。
屁をした後に聞こえてくるのは、ユーモア溢れるフォローの言葉ではなく、「どうして革命を目指すこの状況で屁をするのだ。自分に甘いのではないか」という糾弾と、「総括せよ!」という処刑宣告だろう。p.176
ところでここ数年、「分断」ということばをよく聞きます(たまには社会派なことを書く!)。社会が分断されているらしいよ。知らないけど。その分かたれている中身とは、個人のそれぞれもつ通念的な「ふつう」という画一化された極性なのではないでしょうか。「ふつう」という思い込みは、じつは集団極性化の産物であるのかもしれない。ってな思いつきです。連合赤軍に属す人々の中では、革命という理想から外れるような行いは「総括せよ!」がふつうであった。しかしそれは外から見れば極性そのもの。
「ふつう」と聞くと、かならず思い出す一曲があります。
Perfumeの「Dream Fighter」です。
ねぇ みんなが 言う「普通」ってさ
なんだかんだっで じっさいはたぶん
真ん中じゃなく 理想にちかい
だけど普通じゃ まだもの足りないの
最高を求めて終わりのない旅をするのは、きっと僕らが生きている証拠だから。とても好きな一曲ですが、「ふつう」という理想に論理を牽引され過ぎることも考えものです。むろん理想は生きるうえで、あるほうがよい。最高を求めたい。しかし来る日も来る日も飯を喰らい屁をこき放尿し脱糞を繰り返す人間のリアルも見落としてはいけません。足の小指をわずかでも打てば、世界への呪詛が止まらないほどの激痛に転げ回ってしまう一個の人間のリアルを(さっき扉の角で打った)。
「宗教も、そのさまざまな欠陥をそっくり引き継いだ各種のイデオロギーも、とどのつまりは、ユーモア撲滅キャンペーンにすぎない」とエミール・シオランは『告白と呪詛』(紀伊國屋書店)に書いていました。その通りいまのネット上の一部では、「ユーモア撲滅キャンペーン」が功を奏しているのだと感じざるをえません。
現実の価値体系と理想の価値体系、その両者を参照しながら生み出す表現がユーモアなのだと思います。たとえば平日の昼間からゴロゴロしながら「あ~あ、ミスチルひとり募集しねえかな!」と言って鼻の穴をほじくる、飯尾和樹さんのギャグがわかりやすい。
現実的な態度のダメさ加減と、そこで口走る浮いた理想と両極のギャップがユーモアになる。自分への諷刺でもあり、そして哀感も漂う。ネタでなく、ためしにひとりでやってみるがよい。「あ~あ、このブログが書籍化されて一億部売れねえかな!」。だめだ、空虚すぎて耐え難い。しかしこの空虚な誰もいない中空、すなわち「真ん中」に身を預け、自由落下状態の周回軌道に佇みつづける道化師こそがユーモア精神の持ち主たりうるのです。「真ん中」の位置は無重力で方向も定まらない、高みも低みもありません。
社会派ちっくにまとめるなら、「自由」「平等」「正義」などといった理想的な普遍性の高みからものを言うのではない、かといって、いまある現実の泥臭い低みをそっくり唯々諾々と受け容れることもしない。アホな理想を笑いのめしながら、現状も決して良しとはしない狭く広く浅く深くてちゅうぶらりんな態度がユーモアです。
でもいちおうミスチルがメンバーの募集をはじめたら、いの一番に手を上げる心の準備は密やかにしておきます。いちおうブログも一億部売るような心構えを孤独にしておきます。内心にそっと忍ばせて。脳裏に鳴り響く「そんなのありえんだろ」という外野のヤジは、重々承知の助でそれでもボケ倒し踏みとどまるひとりきりの力こそがユーモアです。ペシミズムの深淵を覗き込んで、そこには何もないと悟ればもう死ぬか笑うかしかない、そんな境涯、自分しか笑っていなくともかまわない。
ナボコフの遺作の題名ではないが、私は私を見はしない、「道化師をごらん!」だ。そして道化師とは、むろん、トリック・スターなどではなく、ようするに、世界と狭い狭い私の欲望と愛を〈肯定〉しつづける、あらゆる柔らかい肌たちの、時にひりひりと荒れた、時にすべらかに輝く、息づく肌理となり、肌理となることなのだ。
自分の読書メモに出典が書いていなかったけれど、金井美恵子のたしか『おばさんのディスクール』(筑摩書房)にあったエッセイの一部です。ここだけ、なんとなく折に触れて読み直します。いま自分が書いていることに関連している気がする。していない気もする。
ユーモアは自己諷刺であっても、自分それ自体からは距離を置いている。道化師となり、さらに道化師をまなざす。矩を踰えず、しかし心の欲するところに従うためにある精神。そんなところでしょうか。柔らかい肌については、トリュフォーの映画を観ればよいのだと思う。わたしは観ていません。今夜は月がきれいでした。あした満月かな。
コメント
なんか処刑と繋がりますよね。なんでなんですかね。
どんだけ反省したってぜんぜん思い通りになんかいかない人生を、ちょっとしたユーモアに変えて話し合うことができればいいですね。