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日記645


数日前に古着屋で冬の上着を買った。きのうはブックオフで坂口恭平さんのサイン本を見つけた。医学書院のシリーズケアをひらくに入っている一冊。『坂口恭平躁鬱日記』。名前の右に「躁鬱王子」と書かれていた。「鬱」という画数の多い漢字も書き慣れたような筆づかい。均整のとれた思い切りのよい筆跡を数秒間、眺めて、レジへと持ってゆく。

わたしは「鬱」の字を小学生のころ、「笑う犬の冒険」というテレビのコント番組で知った。視力検査のコントで、たしか学生服を着た原田泰造が黒板に「鬱」と書き、同じく学生服の堀内健に読ませるのだが視力以前に漢字が難しくて読めない、というオチだった。その晩、小学生のわたしは「鬱」の字を練習して完璧に覚えた。なにかに駆られて。それがなんだったのかはわからない。クラスの誰も読めないし、書けないであろう漢字を自分だけ知っている優越感はあったかもしれない。もちろん披露する機会は現在に至ってもない。しかしいまでも「鬱」を暗記できているのは、原田泰造のおかげだ。泰造もコントのために練習して覚えたのだろう。彼は現在もこの字を見ずに書けるだろうか。いや、キャスティングはうろ覚えなので、泰造さんではなかったかも。「鬱」は、良くも悪くも当時よりポピュラーになって、書ける人が増えたのではないかと思う。

『坂口恭平躁鬱日記』を家でパラパラめくると、おみくじが挟まっていた。この本の前の持ち主の運勢だろうか。「現在の貴方の運勢は明運と謂う」と書かれている。「明運」とはなにか。中国の元号でしか聞いたことがない。辞書を引いても元号しか出てこない。しかし、明るいんだから悪い意味ではないだろう。変わったおみくじだった。 もう一枚、「貴方の性格」と書かれた紙もあった。最初の三行を引用する。


 貴方の性格は任侠の気質があって人の世話面倒を見るが、大抵其度毎に損害を蒙る事が多いが一面其為に幸運をつかむ事もある。


「が」の重複が気になってしまう。損害が多い、しかし幸運をつかむ事もある、らしい。要するに「いい面もある、悪い面もある」というなんら言い得ていない真理ではないか。そりゃなんだって一長一短ある。それは真理だ。まずはこの真理を悟れということか。なるほど。「任侠」は好きなので、言われるとうれしい。しかしむろん、わたしの性格を言っているのではないし、わたしに「任侠」は似合わない。読み進める。「温厚で雅量があり何人とも同化することが出来交際も比較的上手である」という。何人とも同化するらしい。じゃあ、きょうは綾瀬はるかと同化しちゃおう。あなたの風邪に狙いを決めたい。そういう季節だから。お風邪のケアはお早めに。

運勢も性格も、読んでも読まなくともよいような内容ばかり並べてあった。ピタリとは当たらないし、大きく外れることもない。解釈ひとつで、どうとでも受け取れる。それでよいのだと思う。おみくじや性格診断は、そういうものだ。なんとなく合っているかなー合っていないかなーくらいのどうでもよさが、日常にじんわりと馴染んで心地よい。ぼんやりとわたしを浮かべるのに、ちょうどいい文面となっている。他人のおみくじでも、自分を重ねて浮かべていられる。ぷかぷか。いい塩梅。

さいきん、寒くていい。秋は終わったと宣言したい。やはりわたしは冬の冷たさ、暗さに親しみがわく。憂鬱な質の人は冬を好みやすいという。あるいは。インスタの写真が全体的に暗めだったら、そのまま暗い性格である可能性が高いらしい。うるせえこのポップ心理学め!と思う。人間はきほんポジティブにできていて、「少し憂鬱」くらいのほうが現実的なものの見方をできるのだとも聞く。そうそう。浮つくことはないから、よろしいんじゃないでしょうか(ポジティブに考える)。つねにさめているのもよろしくないか(いい面も悪い面もある)。熱に浮かされるような、なにか。あれば。

『坂口恭平躁鬱日記』も、ちらっと読むと「鬱記」というページが自分の肌に馴染みやすい。憂鬱な話に、ちょっと安心する。親しめる。かんたんにこんなことを言ってはいけないけれど、鍵括弧つきで「わかる」。わたしの中にも躁鬱というほど極端ではないにせよ、気分のグラデーションはある。そのことをアクチュアルに自覚させてもらえる本だと思う。自分の気分の変調も、坂口さんの日記とともに体感できる。躁状態の坂口さんは遠くて、まぶしくて、さみしい。そういえば、坂口恭平さんや石丸元章さんなんかと知己のある女性とむかし新宿で会った。カラオケ店で、なにも歌わずに話をした。彼女の携帯に入っている坂口さん、石丸さんの写真をそれぞれ見せてもらった。いまはもう連絡をとっていない。もう顔も思い出せない。



コメント

anna さんのコメント…
鬱って漢字、たしか何種類かありますよね。
うつ病って書こうとして、変換すると「あれー、どの「うつ」の漢字だったっけ?」といつも悩んでしまいます。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「うつ」は二種類あります。鬱と欝。どちらでもよいと思います。わたしはふだん「うつ」を漢字に変換することはなるべくしません。字面がいかめしくて強い印象になるから。この記事は書名と内容に合わせて「鬱」表記にしました。

いつも悩んでしまうシリーズ、ありますね。エレベーターとエスカレーターとか。「死の淵にて」と「死の淵より」とか。ニコラス・ケイジとモト冬樹とか。たいてい悩むとまちがうので、直感で言うようにしています。