スキップしてメイン コンテンツに移動

日記646



影の流れるようす。どこにでもある。夜になれば、まいにち誰の目にも入っているはずの光と影による現象。写真として切り取ってみる。走りくる車のヘッドライトに次々と照らされ、幾重にも複層化しながら規則的に動く植物の残影。車が通り過ぎるたびに現れては消える。こどもの頃からじっと見てしまうもののひとつ。洗濯機のまわるようすをえんえん眺めるような感覚にちかい。わたしには葉や枝や茎などよりも、その影のほうが確固たる実在に思えた。鮮やかでさえある。自由さがある。なんでだろう。わたしの円周を巡る、この黒いやつのほうがのびのびできている。自分の影にも嫉妬する。

吉祥寺にある爬虫類カフェのinstagramで多様な爬虫類と絡み合う人々を見ていると、「爬虫類ってどんなにおいがするんだろう?」と思う。イメージとしては無臭。と書いてから適当に検索してみたら、その通り無臭らしい。でも生きているのだから、鼻をちかづけて集中すれば、わずかでもなんらかの体臭は発していそう。生きた爬虫類のにおいを嗅ぎたい。ヘビとイグアナではちがうにおいがするだろう。食生活がちがえばおそらく。ソムリエみたいにテイスティングして当てられるようになりたい。そういう職業があれば就きたい。生きているやつ舐めたらしょっぱいのだろうか。苦そう。カメレオンは甘そう。ゴムっぽい感じかな。舐めないけどね。爬虫類を舐めながら性的に興奮する男性がいたらすこし気持ち悪いと思う。でもいてくれたらうれしいかもしれない。多様性を感じる。人間という生物種の可能性を感じる。いや、いるんじゃないか。しかしさすがにこれは検索しない。詮索する気はない。不確かにしておいたほうが賢明なことも世の中には数多くある。疑問符を置くにとどめよう。

そんなことより給湯器が壊れてお湯がいきなり水になってしまう。風呂場で気が休まらず。




ミラーボールに魅せられた人種がよかったなあ。悪魔が取り憑いたみたいにfreakな。11月25日(日)、下北沢THREEというライブハウスに行きました。音楽ライブ。出演は3組。uminism、万里慧とYo Asaiと菊淋 、もらすとしずむ。万里慧さんはふだんソロ。

下北沢駅の南口から歩いて「あれ、これ道まちがったかなーあってるかなー」とほんのり不安がよぎる頃にちょうど見えてくる場所が下北沢THREEです。「ああ、あってた」となる。極私的には、的確無比な体感距離の説明だと思います。時間だと徒歩10分あるかないかくらい。来るのは3回目でした。

12時ちょい過ぎに到着してハイボールをいただく。フロアにブラックサンダーがぽつぽつ置いてあって、食べてよいものだと聞き「うれしいなあ」と素で言う。こどもか。お昼時でしたから、気を利かせてくださったのでしょう。ふたつ食べました。そしてライブ終わりに余っていたやつをひとつお持ち帰り。ああ、うれしいなあ。





ハイボールを飲み干して、残りの氷を頬張っていると始まったuminism。自分がスピーカーの真横にいると気がつき、ちょっとビビる。音の圧が全身にダイレクト。なんとなく前の方にしゃしゃり出てみたものの、後方にいたほうが落ちついて聴けたか。小学生の頃、サッカーチームに入っていたせいかポジショニングを気にしてしまう。どこでもスペースをつくりたがる癖がある。パスは求めていないけれど。背後に人間がいるとやたら気にしてしまう癖もある。これはゴルゴ13の影響か。あるいは前世がスパイだったのか。逆に狙われる立場だったのか。

uminismというバンド名、youtubeのアカウント名は「海に棲む」。音にじっさいの色があるとすれば、淡めの青っぽい。その基調に光が射し、伸びたり縮んだり浮いたり沈んだりして変化する。目を閉じると広いところにぽつんと置かれた気分。スペースがあったのは音の中だ。

わたしはたまにキチガイじみたラップをつくりますが、どちらかというと静謐な音楽が好きです。自分の身をゆるく調和できる音像が落ちつく。まさしく浸れるというか。散逸する記憶の風景を摘みとったような音のかたち。しかし浸ろうとしたその刹那、「浸ってんじゃねえ!」と小人たちが頭の隅で騒ぐ。自分で自分にオブジェクションが入る、ミラーボールに魅せられない人種。




音と映像の背後には記憶と想像がある。記憶にうずまる感情が再生されて、感情が想像をドライヴする。ベース、erinaさんのMCもよかった。苦手ですと言いながら、少しずつ話してくださる。詰まったとき「感謝しとけばいいよ!」と景気のいいアドバイスが入るも、それに直接は乗っかることなくしかし緩んだ空気に乗じて間隙を縫うようにやり抜く。自分の持ち場を、かんたんには譲らない強かな責任感を覗かせます。一長一短あれどそういうところは、信頼のできるお人柄につながるのだと思う。なんも知らずに観たuminismは、完全に好きなやつでした。





万里慧さん。と、SUTEKI☆DRUMMERのYo Asaiさん。と、音楽家でAV監督の菊淋さん。わたしは少しポジショニングを変更して壁越しで観る。壁があると落ちつく。壁最高。壁男である。箱男でもいい。箱に入っても落ちつく。包まれると落ちつく。着たことないけど、全身タイツにハマりそう。

万里慧さんは、MCでおしゃれな空間の居心地の悪さをぶちまけておられて、でも自分も「おしゃれ」になりたいような両価的な想いも垣間見え、共感することしきり。MVはしっかりおしゃれで素敵。おしゃれとかアートとか、そういう系の場はコミュニケーションがとりづらくてこわい。でもそれっぽいものに惹かれることも確かで、なんだろうと思う。日常との遊離がある。

ステージ上からお客さんへの語りかけは、アーティストの人間宣言だろう。ステージの上は話が通じなくともかまわない場所です。芸術の「話が通じない」ところにわたしは惹かれる。通じなくていい。わかっちゃったら色気がない。歌っている人間とは話ができないから、読みとるほかない。まなざすほかない。「わかる/わからない」ではなく、信じる。ひとつの在り方、立ち姿を、それも反射的に。あなたの音に乗って。音楽は、理解に先立つ。

流暢なMCでわかせる万里慧さんも、曲の最中は全身全霊で話が通じない。菊淋さんのベースとAsaiさんのドラム、そして自分ひとりの感情の責任を背負いながら弾いて歌う。聴きながら「感情の責任」ということばが浮かんだ。その観客でありたいとすなおに思える。

「じゃあ、はじめよっか」みたいな軽いノリで曲に入るところが好きです。「それでは聴いてください……」といった、かしこまった顔はしない。「ちょっとコンビニ行ってきます」みたいな。無造作に始めて、しっかりかっこいいお三方。




トリのバンド。もらすとしずむ。

またポジショニングを変更して前に出てみる。壁よさらば。最初とおなじスピーカーの横らへん。しかし音圧がuminismの比じゃなかった。わーすごい。ちかくに防音イヤーマフをつけたお子さんがいて、こどもという異なった視点を加味しつつ観ると、盛り上がるおとなたちは相対化されて不思議にうつった。おとなは不思議なものでぶち上がる。野蛮だ。音楽ライブは部族の集いみたいなものかもしれない。

こどもは、あたりまえですがおとなより未発達で身体性が出来上がっていない。演奏を感受する身体性。もらすとしずむを聴く身体性は、何度かライブに足を運んでいるわたしでも未発達だと思う。




黒光りする電気マッサージ機。
いわゆる電マ。

こんなことされたら、身体を空間のどこに位置づければよいものかもうわからない。べつに位置づけなくともよいのか。そのまま震動に身を委ねれていれば、気持ちよくなれますか。失礼を承知で書くと、黒電マの震えるヘッドとそれを操る田端“10”猛さんの踊るスキンヘッドのツヤと丸みが同期する感じでおもしろかったです。いったいどちらが本体なのか。握った瞬間、電マに魂が移動するのだと思う。意思決定は電マがしている。




粗い写真ばかりだったので加工してみました。積極的に粗く。少しスライドをかけたら、右にギリギリ写っていた10さんの頭部がちょうど飛んでしまいました。そもそも勝手にこんなに加工しちゃっていいのかもわからない。「飛んでしまいました」じゃないよ。飛ばすなよ。

途中で退散して壁越しに戻る。理由は特になく、高密度で人に囲まれていると落ちつきがなくなるのです。後方の視野の制限された場所で聴くと、なんかものすごい現象が起こっているのではないかという気がする。視覚を補おうとして、聴覚からの想像が働く。ステージ上にあったのは、演奏というより出来事ではないか。ここに至るまでの分厚いひとつながりの出来事がある。記憶という意識の結合を楽音のつらなりに還元して、解放すること。

音楽の演奏は、感情を告げる技術であると思う。それを披露する現場に足を運ぶのは、記号化できない生の感情のスペクトルが渦巻くから。ライブ会場は、苦手なのです。それはわたしが感情のとぼしい人間だからです。自分の中からわきあがる感情はない。受けとる音楽が、すなわちわたしの感情になる。とぼしいものを、受けとりに行く。それが「感受」ということ。




下北沢THREEの超えられない壁。

人が涙を浮かべる理由、怒れる理由、憎悪の理由、愛する理由、もろもろ感情の理由は、わたしにはよくわからない。そこにはいつも超えられない壁がある。ただ感情は、信じることと密接なつながりがあるように思う。音楽は感情を告げる技術だと書いた。ステージ上で音に乗る人間と話は通じない。では日常会話では十全に通じ合えているのかというと、それも心もとない。きっと意味は伝わるだろう。でも人が伝えたいことは、意味内容だけではない場合がほとんどだ。ことばを尽くそうとするぶんだけ、もどがしさが募りゆく。伝達できる意味の隙間からこぼれ落ちた「わからない」側面に感情が溶け出している。それが音楽、ひいては種々の表現物になる。通じるか通じないかわからないのだから、もう信じるほかない。ことばや音の規則性の中に生じるゆらぎ、ひずみ、ずれ、旋律。あらゆる伝達には、ちいさな祈りの形態が混入している。

こぼれた時間を束ねよう。
死者を立たすことにはげもう。




帰りに撮影。
道の脇に便器があったよ。




コメント