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日記647


さいきん、いい写真が撮れます。ここで言う「いい写真」とは、単に個人の趣味的な価値判断に過ぎません。100%主観。というか不勉強ゆえ、それ以外の「いい写真」という価値基準を知らない。でも、これよくないですか。よくないこれ。よくなくなくなくなくなくない?「今夜はブギーバック」の薄っぺらいリリックが好きです。べつにさいきんに限ったことではなく、いつもこんな調子だったかもしれません。

ここ2日ほど偏頭痛に見舞われておりました。家にいると痛みで横になるしかなく、半端に眠ると悪化する(気がする)ので強制的に外を歩きます。わたしが自由を感じるのは、散歩をする時間だけです。ひとり行使できる唯一の自由が散歩。頭を冷やすと痛みはやわらぐ。冬だ。でも帰ると吐き気までもよおす始末。

嗅覚、聴覚、視覚が過敏になります。暗くて静かな場所でじっとしていたい。頭痛のときに限らないか。そもそも暗くて静かな場所を好む生き物でした。ちょい大きめの石をひっくりかえすと這いつくばっています。そいつがわたしです。ライバルはワラジムシです。


11月30日(金)


よく晴れた冬の昼日中。ほっつき歩いていたら、警備員っぽい格好のおじさんが小走りでわたしの横を通り過ぎていきました。なんか急いでいる。かと思いきや、数メートル先でピタッと止まりました。おなかをおさえながらおもむろにこちらを振り返ります。なにやら苦悶の表情を浮かべている。なんだろう。わたしと視線を交錯させたその刹那、おじさんは言いました。「ああ、おなかいたい……」。え、そんなこと言われてもこまる……。困惑。わたしはなんとなくほほえんで会釈をしました。「がんばれ」とでも伝えればよろしかったのでしょうか。応援してほしかったのかもしれない。

とりあえず困ったときの「ほほえんで会釈」です。必殺のやわらかい物腰。視界に入れるととろけるような物腰で、すべてをあいまいにやり過ごす!「ほほえんで会釈」のスキルだけには自信があります。イエスでもノーでもない、挨拶でさえない、意味の表象を限りなく薄めた、ただ「わたしはここに存在していますよ」というだけのメッセージ的なる雰囲気をかもしているのか、いないのか、なにもかもあいまいでわからない高度なぼんやりコミュニケーションスキルです。あらゆるものを、あってもなくても居てもいなくてもおんなじ地平に帰す。日々のぼんやり活動で鍛え上げたスキルフルな殺し技!

あるいは、「わたしも偏頭痛がひどくて……」と返答すれば、いいカウンターになったでしょうか。そうすれば、おじさんも「え、そんなこと言われてもこまる……」と思えたでしょう。互いにおなじ種類の困惑を共有して、心の距離がひとつちかづいたはずです。そうなればもう恋仲へとまっしぐらです。おなじ気持ち→変な間→これはつまり両想いなのだと気がつく→ラブストーリーは突然に。というよくあるパターンです。このシチュエーションの「変な間」こそ、小田和正が歌った「何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて」なのです。あの歌詞のように雨が降りやんで、さらに黄昏時だったらたいへんなことになっていました。晴れた昼間でよかったー。セーフ。

少しだけ、まじめに考えたくもなります。やはり人間はごく自然にそれと知らず祈ってしまう生き物なのではないか。「おなかいたい」と、名も知らぬ通行人Aであるわたしに伝えたところでどうにもならない。わたしはトイレではないから。たぶん人間だから。おじさんの訴えは用をなさない、意味のない発語だ。おじさんもそんなことはわかりきっているけれど、あのとき言わずにはおれなかった。ことばの伝達というものには、多少なりとも「意味」以外の、祈りのごとき要素がふくまれている。意味のない鳴き声のような、祈りのような“何か”の引き受け方こそが、コミュニケーションの本義であるようにも思う。

わたしたちは他人だ。血脈の通じる家族でさえ結局はべつべつの個体同士であり、他人である側面は埋められない。他個体のすべてを知りうることはない。わたしではない人間の感じ方は、当て推量でしかわからない。自分の中身だって、あいまいでパキッと判じ得ない部分は多くある。感じたことをじかに、そのまんまあらわすことはできない。「おなかいたい」のひとことの中に、具体的な痛みはない。他人の痛みを直接リアルに感ずることは不可能だ。痛みの発語は、おじさんだけの孤独な痛みがあるのだろうという推測を許したに過ぎない。

わからない。誰にでも意識のない、夜の部分がある。まどろみの中でわたしを駆動するものはなんなのか。自分でも認識し得ない自分の暗がりをどう処すか。ことばとは、まぼろしの織り物だ。まぼろしは夜に育つ。間接的に現実を取り出すために幻想の手を借りる。わたしが不意に直面した問題は、おおげさに言えば、おじさんの誰にも伝わらない腹痛という孤独の現実≒幻想を、どう受けとるのかという問題だった。

いや、受けとらずとも、おそらく聞くだけでよかった。「誰かが聞いてくれる」と思えれば、ひとりごとでもじゅうぶんだったのではないか。聞いてくれる一者を措定できれば、ことばは自ずとわたしを開いて祈りだす。鳴き声が上がる。その「誰か」は具体的な人間であったり、神さまであったり、自然であったり、動物であったり、物質であったり。誰でも、なんでもいい。とにかく自分のことばを聞いてくれる者がこの世界のどこかにいる、聞き届けてくれる場所がある。それさえ信じることができれば、意味など関係なく、あらゆることばは用をなしている。

おじさんは、わたしを「聞く者」として信じてくれた。あの瞬間わたしは、おじさんの信仰の対象となった。一瞬だけ。そしてわたしはその声を、確と聞き届けた。「ほほえんで会釈」は、あなたのことばが祈りへと変じたサインだった。あなたの言語的な世界への信仰は成就した。オーライ、あとはうんこをするだけだね。じゅうぶん過ぎる対応だったろう……。としておこう。おじさんは小走りで最寄りの公衆トイレを目指していた。

果たして、間に合ったのだろうか。

だいじょうぶだよ、わたしも祈ってた。
意味なんかないね。


Eテレで放送された、ECDというラッパーについてのドキュメンタリーを観ました。彼の書いた『他人の始まり 因果の終わり』(河出書房新社)は発売前からtwitterで書名を見かけて、とても印象に残っています。しかし手が出ていない。奥さんの本とともに書店でよく目に入るけれど敬遠している。書名が印象的で忘れられない本に、ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』(同学社)があります。ECDの本も、記憶しておこうと思う(読めよ)。

写真家である奥さんの植本一子さんは、番組の終わりのほうでECDの言う「他人」ということばに違和感を表明していました。そのことにわたしは違和感……。勝手な推測ですがECDさんは、夫としての自己、父としての自己、社会の中の自己、などと並列して「一個の比類なき自己」に時間を割いて生きていたのではないかと思います。

さいごはひとりで死にゆくしかない自分が、いまここにあるのだと感覚できれば、「一個」であることは否定できないのだと僭越ながら思います。わたしは幼少期から「死」のことをリアルに思うと、血の気が引いて過呼吸のような症状が出ます。自分も一個だ。


僕にとって「誕生」は「死」のように恐ろしいことだった。


ドキュメンタリーで引用されていた一文です。
おなじようなことを頻繁に思う。
これも僭越だろうか。でもほんとうに。

余談ながら終わり際、墓前でインタビューを受ける植本一子さんのうしろでお子さんふたりがぐるぐるとまわっていて、「こどもはなぜよくまわるのか?」とまるで関係のない疑問にとらわれました。

信号待ちで、こどもがポールや電柱の周囲をまわる光景にも遭遇する。公園に行けば遊具でまわってあそぶ。回転は、こどもたちにとってのイケてる娯楽なのです。奴らはヒマさえあれば回転する。好物は回転寿司だ。「回転欲」のごときものがこどもにはそなわっているのではないか。

かくいうわたし自身もときおり部屋を無意識にまわっています。ぶっちゃけ信号待ちでまわっているときもある。挙動のおかしな奴ではないか。おとなはたぶん、回転しないっぽい。決まりはないけれど、おとなの回転は見かけない。


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