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日記649


前の記事でいろいろ書いた北千住BUoYのドアノブは、ことしの11月5日に改修されたブランニューなものであるらしい。建築家、佐藤研吾さんの手による。調べると「詩×船」の揺れる本棚も佐藤さんのお仕事でした。おなじ方の手がけた仕事に知らず知らず反応しまくっていて、こういう意図せざる符合はおもしろいと思う。

twitterで自分の記事をシェアしたら、佐藤さんから引用リツイートをいただきお名前を知ることができました。とうぜんながらノブにも設計者がいるのだから、気になったものは事前に調べるくせをつけなければ。名を知らず、おもしろがるだけでは誠意を逸することもある。わたしはなんでも乱暴におもしろがってしまうから。いつも「人の名前を知る」ということは念頭に置きたい。特にネット上は誰が見ているかわからない。

などといちいち気を遣う人間も少数派なのだろうとは思う。小器用な「リアルとの線引き」はできないから、しない。twitterで見知らぬ人にことばを向けるなんて、なかなか困難なこと。関係の脈絡にもよりますが、わたしの場合、失礼なきようにと心がけていれば「140字以内」は必ずことば足らずになる。ことばをさし向ける本人と、それを見るであろうギャラリーのことも勘案して、かつできることなら楽しくしたい。140字じゃ圧倒的に足らない。分割してスレッド化もできるけれどそんな自己編集能力もない(このブログのザマを見よ!)。どうやってもバランス感覚を欠いた発言になってしまう。twitterのコミュニケーションは苦手。短慮が前提となる。書けないこと、読めないことが多い。ご批判もご賛成も早計に過ぎる。むろん、なにひとつ心がけていなければそのかぎりではない。

コンビニの店員さんにもお礼や挨拶や最低でも会釈をしないと、どうも気が済まない性質です。それは第一に、自分が気分よくいたいから。どこであろうと誰彼かまわず、いきなり不躾に意見なんかしていたら気が滅入っちまうよ。すでに気が滅入っている状況ならば、あるいはしてしまうかもしれません。

tweetはすべて語義の通りさえずり、鳴き声です。それどころか、言語それ自体が第一義として鳴き声だとさえ思っています。「そんなお前の認識がいちばん失礼だ」と指摘されるなら、その通りですね。変にタガの外れた側面は自覚しています。いろいろなところに目が移って好奇心は絶えない一方で、なにもかもくだらなく思えるどうしようもないからっぽさも否めない。だけどせめて、おもしろくてかわいげのある鳴き声を発していられりゃいいじゃないですか。ピヨピヨ。


相変わらず歯ぎしりをしているみたいなので、就寝前のマウスピース着用を検討中です。継続すれば歯が削られるし、睡眠の質も低下するし、頭痛の原因にもなります。起きているときも、気がつくとアゴに力が入ってしまう。というか全身に無駄な力が入っています。ティースプーンをつまむ指先でさえ意識を向けると少し力んでいることに気がつく。身動きが、固い。ゆえに遅い。力を抜こう。今月のスローガン、自分のすでにある重みを意識して生活をすること。

ところで口腔内にも左右差があります。ガムを噛んでいるとき、いつも思う。自分のアゴは左利きです。よく左で噛んでいる。舌も食べ物を左に誘導しがち。歯磨きも左手でします。手は基本的に右利き。足も右です。人体にはすべて左右差があるのだと思います。誰の乳首にも、利き乳首があります。ひとつの乳輪も対称ではない。これが物理学的に言うところの「対称性の破れ」です(ちがう)。

わたしはあまり乳首を利かせた経験がないから、自分の利き乳首にまだ気がついていません。伸びしろですね。細かく見ればたとえば、ひとつしかないへそにも利きへそがあります。きれいな丸ではなく、微妙な偏りがある。これは、へそで茶を沸かすと明確になります。熱の出方でわかる。茶を沸かすときくらいしかへそは利きませんから。さらに言えば、利きケツも利き門もあります。内臓の器官もクセがあると思う。しかし自分の利き肺などを知ったところで「ふーん」というほかありません。


11月25日、中邨靖夫さんが亡くなりました。ヤン坊マー坊天気予報のキャラクターを生んだアニメーターさんです。これを期に知ったことですが、あのCMは1959年6月1日から2014年3月31日まで放送されていたそう。そんなに歴史があったのか。それも2014年に終わっていたのか。そもそも中邨さんの名も知らなかった。なんにも知らなかったけれど、歌はこどものころから歌えます。この歌はきっといくつになっても想起できるのだろうと思う。ふたりの愛らしいキャラとともに。





虫の知らせでしょうか。中邨靖夫さんが亡くなる2日前、11月23日にわたしはinstagramで「インスタグラマーにスカウトさせて頂きたい」という詐欺っぽいコメントに対し、こんな返信を書きました。


すみません。当方、生まれながらのナチュラルボーン・インスタグラマーですのでこれ以上インスタグラマーにされるのはご容赦いただきたく存じます☺︎戸籍謄本の出生地にも「インスタ」と記載されているほどです。お父さんの名前からインスタで、お母さんの名前はグラマーなんです。ふたり合わせてヤンマーです。うそです。きみとぼくとでヤンマーです。これもうそです。ごめんなさい、わたしはうそつきです。ただこれだけは信じてください。お母さんはグラマーな体型です。


お父さんの名前が「インスタ」でお母さんの名前が「グラマー」ならば、ふつうの足し算をすると「インスタグラマー」になるはずです。しかしこのときなぜかふと「ヤン坊マー坊天気予報」の音楽が意識の底から湧き上がってきました。前段がどうあれ自分の中では「ふたり合わせて=ヤンマー」しかありえないのです。たとえうそつきになろうとも。「ふたり合わせて」と言えば、森羅万象が「ヤンマー」に変換されるのです。

コメントを書きながら、頭の中で中邨さんの描いた丸っこいキャラクターが踊っていたことは言うまでもありません。小さなものから大きなものまで動かす力だヤンマーディーゼル。幼少期に、音楽とアニメーションの力によって耳目へ真空パックされた幸福な呪いです。一生涯保証。記憶が引き出されるたびにそれが追悼になります。

CMも古びて時間が経つとなんだか胸にひびきます。夏に福岡へ行ったとき聞いた、チロリアンとか湖月堂の栗まんじゅうとか雪うさぎとか天国社とか、もはや「この土地の歌だなー」と思う。福岡以外でも、ご当地CMは長くつづくものが多そうです。メディアと接触する環境が個人化して、分離が進めばきっとCMの記憶も共有されなくなる。

自分はもうテレビをほとんど見なくなりました。なんでも雑多に、「広く浅く」でありたいのに。どうもノイズに耐えられない。その代わり、ラジオを聞きます。いつからか、大相撲の結果を家族で共有しなくなって久しい。祖母だけが相撲中継を欠かさず見ています。「つまんないわよ」と斜に構えつつ。




コメント

anna さんのコメント…
全然、話の内容とは関係ないですが、インスタグラマーのお母さんの名前がグラマーのところで、
「まあ、なんて羨ましい」と思った、カツオやマグロのような泳いだら早そうな体形の私です。
(一応、泳げますが遅いです。泳いでいて溺れていると間違われて助けられたことがあります。)
nagata_tetsurou さんの投稿…
そんなお話もしてくだされば関係のある内容になります。どこまでもうそつきですが、ノリで書いたのでお母さんはグラマーな体型ではありません。お母さんらしい体型です。annaさんは、魚類のような流線型の美しいフォルムをされている方なのですね。わたしは好きです。流線型。きっと練習すれば猛スピードで泳げますよ。自分はかれこれ十年以上、プールも海も入っていないので泳げるかどうか不安です。