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日記650


自分の名前への忌避感があります。という漠然とした結論。文月悠光さんからサインをいただいたとき、てめえの名前を入れてもらわなかったことについてえんえん考えていました。そんなに考えますか。

「サインにあなたの名前もいれましょう」なんてそんなん、ふつうの気のまわし方でしょう。ぜんぜん。でも直感で「無理」のスイッチが入った。一瞬でアカン!と思った。関西人でもないのに。あれはなんだったのか。「恥」も忌避感の一種ですが、それとは少しちがう。根本的に「名という形態」への居心地の悪さがある……。書くことも書かれることも。まだ名前にうまくアイデンティファイできていません。きょうの生まれたてです。きのうの成れの果てとしての。そもそも「自分が名をもつ者としてここにいる」ってだけでキモい。

ふしぎな話かもしれませんが、一人称が口に出せなかった時期が長くあります(いまは大丈夫)。吃音とか緘黙症とかの一種なのでしょう。診断は受けていません。自分の名前も、言おうとして言えない状態が数ヶ月つづきました。19~21歳くらいにかけ、鬱々と押し黙る生活をしていて、おそらくそれまでつちかった言語体系がガラッと再編された気がします。それからは、ことばが自分の中にはないような隔たりができました。何を言おうがうそじゃねえかという空虚さが抜けない。一生かけて考えるものだと思います。書くことはいまもつづくリハビリです。健康習慣です。うがい手洗いにんにく卵黄です。

名というのは自分にとって、被支配(=致し方のなさ)の象徴なのではないか。以前、「首輪」と書いた気もしますが、この世に自分をつなぎとめておく大切なアンカーとも言えます。同一性を担保するもの、居場所を根拠づけるもの。もらいうけたもの。関係性をかたちづくるためのもの。人との関係性は生きていくうえでとても大切ですし、大切にしたいものです。みんなからもらった言語、そしてみんなの中にいるための名前だ。茫洋たるみんなに、茫洋たる感謝をしています。

一方でそんなものは便宜上の手続きに過ぎないのでは?という気分もあります。ゲームのルール。各々の都合を立てるため。むろん手続きは重要です。社会はすべてそれで成り立っています。そうするより仕方がない所与の前提。わたしは名前をふだん信じている。でも、ときおり信の底が抜けて、ぜんぶペラッペラのカキワリに思えてしまう。もう性根がアナキストなのだと思う。「支配がないだけでなく、起源も根拠もないのがアナーキー」と栗原康さん白石嘉治さんの対談本『文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン)にありました。自分を支配し、立たせてくれる根拠の地面が液状化して、油断するとわけがわからなくなる。自分が自分ではなくなる恐怖とはつねに裏腹です。この「アナーキー」がわたしの特性に当てはまるのかも、わからない。根拠がない。

なんであれ、こういう意味不明なめんどくさい観念は捨て去りたいものです。どうでもいい感じで言われるがままに流されて、表面だけをなぞるように上滑りして流れまくってどんどん浄化されて透明になれば成仏できる。みんなの中にいたいんだ。安心したい。



近所の農家さんから、大根と八頭をいただきました。調理前の八頭はグロテスクで迫力あるナイスなたたずまいでしたが、煮てしまう。写真を撮っておけばよかったと後悔。仕方なく煮ているものを撮りました。皮をむけばグロさはない。きれいなお芋。大根は丸っこく短くて、つるんとしてかわいらしい。こんなかわいい大根はほかにない。ペットにしたいくらいの大根です。でも食べる。飼っても腐るだけ。

きょう、散歩していたら町内の掲示板の柱に「トミ子TEL」という真新しいひっかき傷がありました。その下には電話番号がはっきりと刻まれていて、「どうしたんだトミ子」と心配になります。名前からしてお婆さんっぽい。トミ子ご乱心。さみしいのでしょうか。人は寂しくなってもなかなか死なないけれど、おかしな行動にうって出やすくなる。錯乱のトミ子が安らぎを得られますように、祈るような気持ちで横切る。たった1日のうちでも、膨大な他人の時間を横目に通り過ぎています。自分もまた同様に通過されている。トミ子と変わりません。刻まれていたのはわたしの電話番号で、じつはトミ子はわたしであった。としたら。そんな気がしても、ふり返ってはいけない。通り過ぎる。通り過ぎる。



コメント

のえたん さんの投稿…
これを読んでいて、“一人称を持つこと”にすごく興味がわきました。親の前では、私は「お姉ちゃんね」と言う子供時代を過ごしていたのですが、その名残(?)なのか、いまだに親の前では、普段使っている「私は」の言葉が気恥ずかしいと思いながら、使っているのです。
耐えきれず、たまに「お姉ちゃんはね」と言ってしまうときもあります…。
あと学生時代に作った映像作品が「I」(英語の一人称としてのI)だったことも思い出しました。
ちなみに、小学生の頃、一人称が「ぼっくん」という女の子がいました。それがいまだに印象的で心に残っていたりもします。あぁ、あとまだあります。沖縄に住んでいた子供時代は、一人称に名前を使う子が非常に多く(なぜだろう…)その影響を受けた時だけは、一人称が自分の名前になっていて、そちらの方がしっくり来ていたのです。
私の人生の中で、一人称について考える時期がきました。これは、何かすごく大切なことのような気がします。そういえば、「千と千尋の神隠し」は名前が一文字奪われる物語でしたっけ?
色々思い出しましたが、「みんなの中にいるための名前」という言葉に、特に考えさせられるものがありました。
多くの問いをくれて、ありがとう。
nagata_tetsurou さんの投稿…
のえたんさん、ありがとうございます。長じてから、大人同士の親子関係を「一人称同士の関係」へと結い直すことは、各自を各自として受容するうえでたいせつなことかもしれませんね。「親」だけでも「子」だけでもない、べつの自我がお互いにあるんだよね、と。それが可能なら理想です。

でもたぶん、「私は」から、ほのかな淋しさが波紋としてつたわる。それが感覚できちゃうから振り切れない。それはそれで暖かい関係なのかもしれません。わたしも親の前で一人称をきっぱり語ることはあまりありません。親子関係の正解は、わかりません。正解を問われれば、越後製菓!とこたえるほかありません。いつだって正解は、越後製菓です。

日本語の一人称は多様で、ファッションセンスとおなじように自意識が透けて見えます。「ぼく」をつかう女性もいますが「ぼっくん」はその系統からの派生でしょうか。自分の名を一人称に使うと、第一印象はかわいらしくて、こどもっぽい感じになるかな。ことばと自分との距離がちかい感じ。自分即自分みたいな。そういう人、好きです。

そういえば『坂口恭平躁鬱日記』(医学書院)の中で坂口さんは、ご自身を「坂口恭平は」とまるで他人のようにフルネームで記述しています。他人というか、物語の主人公みたいに。自分を俯瞰する手法としてじっさいに有効だそうです。よけいな反省をせずに客体として自分を記述している。おもしろいですね。

問いは、選び直すことにつながります。千尋は千を経由して、また千尋を選び直す。親子関係への問いも「結い直す」と書きました。おなじものを、何度でも選び直す。何度でも繰り返し夢見る。「二時間経ったら、ひと晩明けたら、かたちが変わるほうがふつうでしょ?」と吉田沙良さんが歌っていました。ことしよく聴いた、ものんくるの楽曲を置いておきますね。

https://www.youtube.com/watch?v=3joIVlnkkjg