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日記651


暗くて冷えた色の居心地がいい。

前に「twitterのコミュニケーションは苦手」と書きました。文字数が足りないから。でも思えば、twitterだけではなくすべての言説は視野が限局されています。どんな写真の風景も、この世のありとあらゆるものを写し出していることはありません。どんなに浩瀚な書物でも全世界を記述し切っていることはありません。前提中の前提として誰の視野も限られています。その「狭さ」の質に個人の価値があると信じる。

一語一語を、ここに書きつけるたびにわたしは、自分の視野を狭く見限っています。ことばとして、たったの一語として世界を切り出して、わたしを切り出して、見限りつつ時間は進む。それでもまだ、限られないこの場所があります。まだここにわたしがある。いい加減、なにもかもに見切りをつけて終わりにしてしまいたいけれど、どんなにことばを尽くしても限りがないのです。

でもこうして限らなければいけない。たとえば人に好意をつたえるにも。生きていれば相反する感情はかならず発生しうるだろうが、ひとつだけを、選び取る。それ以外の枝葉末節に、いまだけは見切りをつけて掴み取った大きなただの一語のみを疾走させる。「あなたが好きです」。言ったそばから自信がなくなっても、不安にとらわれても、かぶりをふって二の句は継がない。

そんなふうに、感じたことや目にうつる風景を絶えず見限って見限って、満身の力を込め制限したうえで、いまこのときをあぶりだす「狭さ」にわたしは価値を見ます。だってわたしたちは、点として存在することしかできないではないか。考えを述べるにも行動をするにも、まず時間と捕捉できる範囲のスケールを調整しなければ、なにもかたちにならないし、なにもつたえることはできません。

ああ、「好きだ、なんて言うのは野暮です」とラジオでお話になっていた永六輔さんのお声を思い出す。もしかしたらわざわざことばの切れ端として限定せずとも、限りのないわたしとあなたの「点」を全身で見留めあえればそれが自然として成立するのかもしれません。わたしたちの関係は、ごく自然な、あたりまえの景物である。

歌舞伎では音もなく降る雪を、大太鼓の音によって表現します。舞台の上では、雪の音を鳴らさなければ雪が降っていることがわからない。表現は総じて、雪の降る音を鳴らすようなものだと思います。静寂を音に換えて表現するなんて、ほんとうは野暮なんだけど、かなしいかなそうしないとわからないのです。ははは。

「道路が好きなんです」という素敵なご趣味をお持ちの方とお話しました。そんな、人の「狭さ」がわたしは愛おしくて仕方がない。いや全国を縦横に走りめぐる道路は広大です。そうそう、狭くて広いのです。イカばかり描く画家の宮内裕賀さんとか、路上に潜む石を写真として収集する「路上探石」の山田愛さんとか、ホース写真を撮りつづける中島由佳さんとか、その視点からミクロな世界の広大さを教えていただけます。

イカの透き通る美しさ、転げる石の愛らしさ、ホースの多様さ、道路のおもしろさは、いわば自分ではけっして気がつくことのない、雪の降る音でした。鳴らしてもらえないとわからなかった。

そういう方の視点を知ってから道を歩くと、ホースや路上の石によく目がいくようになるのです。大袈裟に言えば、世界の認識の仕方が変わる。イカの見方も、「食べ物」だけではなく美的な観点が加わる。わたしはアレルギー体質でイカが食べられないので、もはや美術品としてだけ見ています。ひとりの人の道路への愛を知ったいま、道路もすこし見方が変わりました。そんなに好かれるなんて、やるなー、道路。見上げたものです。道路に敬意を払うよ。

なんの変哲もない近所の風景にも、そこに誰かの狭い狭い関心の対象が潜んでいると知れば、歩くだけで刺激的です。目から鱗が落ちるのではない。他人の鱗を何層もハメまくるのです。極彩色の色眼鏡から世界を見る。おめでてーやつかも。狭量で微細なる好奇心をできるだけ多くあつめたい。

人間の狭隘さをまずは愛せれば。たとえば、こどもの愛らしさはその「狭さ」からきています。言語的な認識の狭さ、身体的な認識の狭さ。こどもは自分の狭い狭い感覚を、せいいっぱい広げぶつけてくれる。楽しいときにはすべてが楽しくて、嫌なときにはすべてが嫌になる。悟りきったようなお子さんがいたら、不気味でしょう……。

べつにこどもでなくとも、個人は自己の狭隘さから脱出できない。年をとればだんだん適当にごまかせるようになりますが、ごまかしのきかないわたしは大人になってもなおここにある。個人と個人の親しい関係は、狭い間隙に芽生えるもの。広きに放てばたちまち分かたれる。一個の人間の了見の狭さを、できるだけ楽しく助長し合えればいいと思います。好きなものを思うときの、世界の狭さを深めたい。




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