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日記652


クリスマスシーズンです。
そこいらじゅうテーマパークみたいにビカビカしています。
それだけで、なんだかうきうきする。

街では流されることのないであろう、好きなクリスマスソングがあります。Wild Man Fischer & Dr. Dementoの「I'm A Christmas Tree」という曲です。俺、クリスマスツリー。ワイルド・マン・フィッシャーは、フランク・ザッパのプロデュースで世に出た歌う狂気のおじさんです。ストリート・シンガーだったのかな……。ザッパにスカウトされたようなかっこうでデビュー。彼の歌は珍盤として有名だったらしいんですが、いまはSpotifyなどの配信でも聴けます。youtubeにもありました。





いやー、元気になります……。

愛だの恋だのファミリーだのを歌うキラキラのクリスマスソングも好きですが、そんなもんはいっさい度外視して“俺はクリスマスツリー”といってのけるワイルド・マン・フィッシャーのワイルドさは、浮世に疲弊しきった心身へ確実なヒーリング効果をもたらしてくれると同時に最高にたのしくパーティーな気分にもしていただける、すばらしいクリスマス・ソングなのです。あがるー。





この曲の永遠にぐるぐるまわる感じとか。このたのしさ。歌とは、音楽の本質とは一面こういうものであるよなーと力技でわからせてくれます。ワイルド・マン・フィッシャーの英語はシンプルなフレーズの繰り返しが多く、すぐに口ずさめます。日本で習うところの中学英語くらい。でも意味はよくわからないものが多い。彼は意味の世界ではなく、メロディの世界に住んでいた人なのではないか。

ことばの音楽的な側面と意味的な側面は、発話行為が音を通してなされるものである以上いつも表裏一体としてあります。どんな発話にもリズムや抑揚がある。会話だと、聴覚や視覚で相手の発する音が始点と終点を示すときのテンポ感をつかんで、タイミングをとりつつこちらも音を発し始めます。動作もまじえそれを繰り返す声音のセッションが会話です。「音楽的」というのは、動的と言い換えることもできそうです。対して「意味的」とは、つまり記号化された静的なことばです。

おとなが乳幼児に話しかけることばは、ピッチ幅が大きくその韻律自体にメッセージがふくまれています。これは意味的ではなく音楽的なアプローチとも言えそうです。そうした乳幼児へ語りかけるときの、あやすような口調をIDS(infant-directed speech)といいます。言語獲得前の赤ちゃんは通常の発話よりもIDSへの選好性が高く、反応も返しやすいそうです。

歴史家のウィリアム・マクニールは音楽の機能のひとつとして、人々の一体感を高めること、つまり「境界の喪失」を見てとりました。スティーブン・ミズンの『歌うネアンデルタール』(早川書房)からの股引です。「境界の喪失」と音楽的な発話を紐付けて考えると、乳幼児の意識は自他の境界が鮮明ではないため音楽的な韻律への感受性が高いのではないかと仮説的に想像しています。

てきとうな仮説を述べまくりますが音声言語に音楽的な要素が欠かせないとすれば、そこには自他の境界を喪失させる機能と、意味を腑分けして切り分け境界を鮮明にさせる機能、ふたつの矛盾した機能が備わっているのではないかと考えます。きっと話し方のものごしや選ぶ語彙など発話スタイルによってどちらの機能を優先させるかを無意識にコントロールしているのでしょう。話し手の意図した機能と、聞き手の認識が一致しない場合も多くあるのでしょう。

メロディのダイナミズムに身を委ねたら止まらないワイルド・マン・フィッシャーのたのしさは、受け手にもばっちり齟齬なく伝わります。ちょっとした気持ち悪さも。この人には世界と一心同体となるような愉悦しかない。まさに“I'm A Christmas Tree”と歌っているとき彼は、完全にクリスマスツリーと同一化しているのです。そして彼の歌をたのしむわたしも同様にクリスマスツリーなのです。右も左も上も下も前も後ろもクリスマスツリーなのです。

気の合う人と声を交わす会話のたのしさも、まずはこの「境界の喪失」にあるのではないかと思います。音声でのコミュニケーションは絶えざるダイナミックな運動性に依拠しているためかけあいの演奏面が強化されやすく、逆に文字によるコミュニケーションは意味的な側面が前にでる静的なものであり、自他をきっぱりと切り分ける機能が強めなのです。

言語の静的な意味性と、動的な音楽性。おそらくどちらの方向へ振り切れても話が通じない狂人となってしまいます。ワイルド・マン・フィッシャーという人は音楽的な認識に精神が振り切れており、ぜんぶドロドロに溶けちゃってぜんぜん話が通じないタイプだったのではないかと想像します。ものすごく勝手な妄想ですが、たとえば数学や論理学を究めたクルト・ゲーデルは真空のように動かぬ意味性へと精神的に振り切れ過ぎて晩年は狂ってしまったのではないか、なんて推測をします。

文章は線的でシステマティックな構造である意味偏重な代物ですが、その意味と意味をつなげながらひた走る推進力は音楽的な働きが担っているのだと思います。あらゆるものを拡散的に溶け合わせ、行を進ませること。一対の意味に収斂せず、次から次にアイデンティティを撹乱させてゆく力能がすなわち「文章力」なのだと自分なりに定義したい。要するにワイルド・マン・フィッシャーに倣って言うのなら、わたしはわたしのみならず、クリスマスツリーでもあるのです。

意味と意味をつなげるための接地面には、何万語ついやすよりも饒舌な音楽が流れこんでいる。「わたしは」と「クリスマスツリー」のあいだに宿っているこの、狂人による強靭な飛躍の論理をつなぐ接着剤が歌である。ことばはなるべく歌うように飛躍させたいものです。泥臭い意味的な論理性の中にあっても、ほんの少しでも。

自分はいままで書きことばに親しむ時間が長く、話下手で考え方もまず自他を切り分ける静的な言語にかたよっている人間です。たまに意味を詰め過ぎて狂いそうになると気分転換のため音楽を受容します。ワイルド・マン・フィッシャーによる、すべてを巻き込むようなたのしい絶唱は、その振り切り方が極端なだけに極上の気分転換につながるのです。

けっしてうまい歌ではないが、彼は全身で世界と溶け込んでいます。声そのもの、歌そのものが世界だった。そのおこぼれにあずかっていやされる。もちろん人との会話もよい気分転換になります。会話は、まさしく拡散的でとめどないものです。

ただ、1対1のやりとりはそれなりにできるほうですが人数が多くなるとわたしは黙ってしまいます。集団内のことばの流れへの参入しがたさは、自他境界のほどよく溶け合ったユニットが自然とできあがってしまっているからなのだと考えます。わたしは多人数にほどよく溶け込むことが苦手です。多声的なリズムの輪に入れず、とり残される。うまく乗れない。

自分だけのBPMをもって場を眺めてしまっています。ポリフォニーな運動に馴染めないモノフォニー型のやつ、みたいな感じでしょうか。基本的に感覚が自己完結的なモノローグです。ワイルド・マン・フィッシャーみたいに、ひとりで勝手にたのしむことならいくらでもできます。大人数での場は、幾度参加しても馴染めません。飲み会ではいつも気がつけばひとりあそびを始めています。輪ゴムとあそぶ。輪ゴムで5時間あそべるから。会が終わるころには、わたしは輪ゴムと自分との区別がつかなくなっています。



コメント

anna さんのコメント…
最初にクリスマスツリーの音楽を聞いて、そのあとに音楽論の「境界の喪失」の文章を読んで、「あー、なるほどなあ。そーかも。」って思ったんですが、その後、もう一回クリスマスツリーの音楽聞いたら、「んんん~?なんか考えて歌ってる?」という疑問が。
でも、音楽はメロディって言うのは、その通りかなあと思います。
「音楽って、結局はメロディよね~」by大島ミチル(セーラームーンとかゴジラの作曲者)
nagata_tetsurou さんの投稿…
あまり詳しく紹介しませんでしたが、歌ってる人は16歳のときに母親を襲って精神病院に入れられているんですね。『ワイルド・マン・フィッシャーとの楽しい夕べ』という邦題で出ているアルバムのジャケットはその出来事をモチーフにしています。統合失調症だったのかな。アウトサイダー・アートみたいなものですね。

クリスマスツリーの歌は、バリー・ハンセン(Dr. Demento)というラジオDJのおじさんが笑いながらいっしょに歌っているのでそちらを気にするそぶりも感じますね。それもかわいいのですけど、ワイルド・マンにはひとりで楽しんでいる絶唱が似合います。

「つくる」ような高級なもんでなくとも、とりあえず音があればどこにでも音楽的な要素は発生していると思っています。ふつうのおしゃべりの中にも、雑踏のような環境音でも。念頭にあるのは、サウンドスケープみたいな概念ですね。音楽は音よね~。笑