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日記655


栗原康×白石嘉治の対談を起こした『文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン)に、「世界の優しい無関心」というお話が出てきます。アルベール・カミュの小説『異邦人』の中にあることばです。現代の価値観では「無関心」というと、とても冷たいものとされています。「好きの反対は無関心」などと諺のようによく使用されている。

でも、それとはべつの側面もあるとつねづね思っています。たぶん以前にそれっぽいことを書いたり、友人と話したりもしていました。まずは世界の自分に対する無関心を肯わなければ、生きていくこともちゃんと死ぬこともできないと思う。「ひくくとべ」というボカロ曲の歌詞「世界がお前に無関心なことはむしろお前にとってラッキーなことだと思わないか?」に深くうなづく。「お前なんかどっちにしろ、いてもいなくてもおんなじ」という世界はやさしいのだと、ブログでも何度か書いたと思います。ケリなんか届かないよ。しかしそれでも足蹴にしようと虚空を切るロクデナシは嫌いではない。

自分のかねてから感じている物思いが、『異邦人』ともつながりハッとしたのです。この小説は10年くらい前に読んだきりですっかり忘れていました。思えば『異邦人』の主人公、ムルソーは周囲から意味づけられ結論づけられ死刑になりますが、彼自身はみずからをなんら結論づけてはいません。判断していない。審判しない。死んだ母親のことも、銃殺したアラブ人のことも。虚構の人物ですが、「世界の優しい無関心」というものを知りうる態度をもって生きていたのだと思う。

ムルソーが殺人の理由として裁判で述べた有名なことば「太陽が眩しかったから」。ここから、なにを読み取れるというのでしょう。文字通りのことしか読みとれないと思う。その通り、まぶしかったから。それだけです。人が生きることも、死ぬことも、物理法則によって。それだけです。わたしは、そこにしか“やさしさ”を感じない。これが最上の“やさしさ”です。

殺人の理由だからセンセーショナルな意味づけを呼び込みますが、人が生きる理由もまったくおなじです。太陽がまぶしいから、きょうも生きていていい。陽がのぼり、眠りから覚め、自分という物質がこの世界にまだある。意識がある。それだけで、ほんとうにただそれだけで、わたしはまだ生きていてもいい。この世から許容されている。でも同様に、人はそれだけで死ぬ。いずれにせよ、およそ意識など及ばぬ自然によって生きて死ぬ。「ある」から、やがては「ない」へうつりゆく。誰もがそう。1日のうちでもその愛すべき、生まれて育ってくサークルの中にいる。かぎりなく大きく、かぎりなく自分に無関心な“自然”という基幹を見据えることこそが“やさしさ”を感じる端緒なのではないでしょうか。

わたしはよく、他人から「やさしい」ということばをうけとります。ありがたく思いますが、そのぶん「やさしさ」については自分のこととして事あるごとに考えるようになります。やさしさとは、わたしの定義だと人間がもちうるものなんかではないと思っています。「自然」です。心臓が勝手に動くことです。心臓はめっちゃわたしにやさしくしてくれる……。そのぶん残酷さとも裏腹なものです。なんでいつまでも止まってくれないんだろう。あなたがやさしすぎてつらいわ……。

人が言語によってなにかに関心を向けたり、向けられたりする時点で、そこにはかならず評価や価値や意味や期待や否定や肯定やらなんやらが混ざってきます。ポジティブなものでもネガティブなものでも、ことばを受容する/受容してもらうことは、関係性を問わず多少なりとも胆力を費やすしごとです。人間のやることにはすべて都合がからんできます。「やさしさ」なんてぼんやりしたことばで解釈すると、人を見誤りやすくなります。

では、人間のもちうる「やさしさ」があるとすれば。自分が人からやさしくされているなーと、どういうときに感じるのか。わたしのそれは、黙っていても同じ空間にいられるときです。無言でも長くいっしょに過ごせる関係は、やさしい関係だと思う。でもいつだって、わたしだって、なにかをやろうとしてしまうね。不安になる。なにかを見ようとする。言おうとする。やってほしいと期待する。黙って永遠にいっしょにいたいけれど、時間を気にしてしまう。あなたにもわたしにも、やることがある。「世界の優しい無関心」という概念は、“愛”にもちかいのかもしれません。あの、つまり、そう、君やぼくを繋いでる緩やかな止まらない法則ってやつ。ずっと。





枯れ落ちた木の間に空がひらけ
遠く近く星が幾つでも見えるよ
宛てもない手紙書き続けてる彼女を
守るように僕はこっそり祈る




12月18日(火)

友人と歩いた日。松濤美術館「廃墟の美術史」。廃墟に描かれる植物の茂りは、有機的な時の流れを感じさせてくれる。荒廃した風景の中にも自然の秩序がある。対してシュルレアリスムの廃墟絵は無機的で時間性を感じない。自分はどちらかというと後者に惹かれます。ぞくぞくする。浜田浜雄の『ユパス』、麻田浩の『旅、卓上』の前で長く立ち止まる。『旅、卓上』はタイトルの響きが「あき竹城」みたいだと思う。麻田浩は65歳で自殺した画家です。あとで調べると、この人の画業にとても魅力を感じた。

「終わり」への想像。自分が死ぬところを自分で見ることはかなわない。見たいのに。という話を帰り道に友人とする。人類が滅ぶところも見たい。そんなような好奇心があることは否めない。逆に始原のことも気になる。「なにこの世界、どうやって始まったの?」と朝起きるたびに思う。でも知ることはかなわないのだろう。生き物は「あいだ」に住まう。途中から生きて、途中で死ぬ。

「この画家」とか「この時代」とかではなく「廃墟」というワンテーマで展示を貫徹させるには、キュレーターの眼力に依るところも大きかったのだろうと思う。担当学芸員は平泉千枝さん。すばらしい展示でした。松濤美術館の建物もおもしろい。設計者、白井晟一。





 
この日は、小学生に戻ったのではないかというほど笑っていた感じ。なんでだろう。自分は笑い上戸なのかも。というか態度としてストレートに表明できる感情が「笑い」くらいしかありません。あと、うれしい!とか、おもしろい!とか。完全にばかみたいだ。

他の感情がないとは言い切れませんが、すくなくともそのままのかたちでは出しません。ネガティブな感情は、べつのなにかに昇華します。そのまんま出しても、つまらないものがもっとつまらなくなるだけです。ネガティブは考えるきっかけになります。あるいは適当に踊ったりどうでもいいラップをつくったりしときゃ消えます。ははは。

ともあれ、自分は友人に恵まれているように思う。年上でも年下でもさほどおなじ時間を過ごしていなくとも素直に笑い合える関係がある。いや、ひとりで笑っているだけかもしれない。ひとりでも楽しいんだからしようがない……。もしかしたら、人付き合いにおいて年齢や共にいる時間はそんなに大きく関係しないのかもしれない。古代ギリシアの哲学者にも、本を通じてあーだこーだ言えてしまうくらいなのだから。


テレビにでているコメンテイターの発言をきいてもぜんぜん、心ひとつ動かされない。でも、駅ビルのくまざわ書店で買ってきた文庫本の、古代ギリシアの、そもそもほんとうにいたのかどうかもわからないようなひとの、しかも翻訳されていて、もとのことばでもなんでもない、つまり何重にも疎外されているようなことばに、ぐっときたリアルを感じたりする。それが人間の現実だとおもいます。そういう混乱、カオス、歴史同時性が、あるいは栗原さんのことばでいえば「爆発」が人間の根底にはある。p.149


『文明の恐怖に直面したら読む本』の白石さんのお話です。時間は思っているよりもっとぐちゃぐちゃで、線状なんかではないのだと思う。「流れ」でもない。私的には、途切れ途切れの断面が縦横に振れながら混沌と錯綜しているような感覚です。その面と面があるときたまたま共振したり交錯したり、たまたま離れたり衝突したりしている。


友人が履いていた、ワークマンの地下足袋が身軽そうでよさげだったので買おうと思います。人と会うと自分の知らないものに触れられる。よさげなものは即とりいれます。迅速にパクる。

三軒茶屋にある東京茶寮というお店では、BGMにレイ・ハラカミを流していました。お茶を淹れてくださった店員さんの、生活感を身にまとった歩き方がよかった。力の抜けた感じ。下半身の脱力に漂う生活の痕跡……。自分の視点が気持ち悪いと思う。お茶漬けを夢中で食べてしまう。おいしかったです。


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