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日記656


プリンセス・アイコという品種のバラがあります。これがそう。新宿御苑。寒中にも凛と咲く。高校生の時分、携帯電話の待受画面を敬宮愛子内親王の写真に設定していました。なぜそうしていたのか、いまとなっては永久に解けぬ謎です。

ギャグだったのかな。それはそれは不敬。いや、ふつうに好きでした。それもそれで、なんか不敬。たぶん、皇族に生まれつくとはどういうことか想いをめぐらせたかった。自分が自分として生を享ける不条理と変わらない、なんて思っていた。

どう言及しても「不敬」ということばが当てはまりそうで、それもいかがかと思う。いつも心に特別高等警察がいる。頭脳警察がありもしない罪をあおりたてる。理由はなんであれ、妙なことをしていた高校生には変わりがありません。


友人に年間ベストを聞かれます。書物とか音楽とか映画とか。つくづくひどい潔癖症だと思うけれど、「選ぶ」というときに少なからず漏出する権威めいた得意な気分が非常にいやです。ましてや「ベスト」なんつう序列化は避けたい。

主観の順位なんかつける必要がないし、「選ぶ」という権能にわざわざ好んで酔い痴れたくない……みたいな、しちめんどくさい自分の内面を感じとってしまいます。希望は逆です。自分が選ばれたいと思っている。書物や音楽や映画などの作品に。それが至福の関係だと思う。あるいは手の届かない、選ばれるわけもないものたちに片思いをしていたい。

選ぶ行為は快楽的で、そのぶんこの愉悦にひっぱられそうでこわい。文化は、ただの生活の一部として享受する。「なんでも見てやろう」という態度でいる。むろん自分の狭い狭い選択傾向はあります。それをどうこう言われたくない気持ちもある。秘密主義。おいそれと踏み込めない神聖な領域が誰にでもある。胸を張って主張できることはひとつ。漫☆画太郎先生が好きだという、一点のみです。画太郎に全額BET。

偉そうな判定をくだしたがる人間は毛嫌いしています。自分がそうなるわけにはいかないと律しているところもあるらしい。知らんけど。ベストを問われても、まじめには応じません。いいと思うものはその都度、話します。「自分の」ではなく、なるべく話し相手の趣味に向けて。わたしには、他人に押しつけたいことがない。ベストへの対応は不誠実です。以下は友人へのメール。


そっか。えーと。音楽なら「蛍の光」です。オールタイムベスト。あれ聴くと胸がキュンとするんですよ、帰らないといけないから。でもわたしの帰る場所ってどこにあるんだろう。地球上にはないような気がする。宇宙の果てにあるのかな。もうどうしようもない。あのメロディの中にふと立ち尽くして、いつもなぜか泣きたくなる。どこにもいてはいけないのだと思う。

そんなときは決まって、人混みになぐさめてもらうんだ。顔も名前もなく流れる群衆の一部が自分の居場所なのだと気がつく。何者でもない自己認識と一致する。誰でもなくて、誰でもいい。それが自分だった。そうやって家路につくための、わたしをお知らせする音楽でもあります。

あの曲、たぶん閉店時に聴き馴染みがあるのは古関裕而が三拍子に編曲した「別れのワルツ」なんです。原曲は四拍子だったかな。だから「蛍の光」は正確ではなくて、2018年の心のベストテン第一位は「別れのワルツ」です。10年連続1位。そうそう、平成も終わりますね。


だいたいのことは「平成も終わります」で落としておけばOKです。いましか使えないフレーズ、せっかくなので使っておきます。「期間限定」に弱い。

べつに、「ベスト」がいやなのは自分の内側の問題であって、信頼できる他人様のセレクションはありがたく聞いたり読んだりします。恒例の年間ベストもひとつの文化です。「選択」にはかならず政治性が絡むことも心得つつ。問題の範囲を見誤ってはいけない。自分ごとは自分ごととして適切に処理をする。

みすず書房のPR誌『みすず』の読書アンケート特集は必需品です。これが毎年ある限り、読む本はなくなりません。理工系から人文系まで幅の広い研究者や作家の年間セレクト。この一冊で、いつまでも読みっぱぐれない。



12月20日(木)


会ってくれる友人がいるのは、ありがたいことです。現在のわたしと関係を保っていてもなんら具体的な益はありません。200円を払って公園をぶらぶら散歩する。疲れたら座って休憩。あとは本屋さんであーだこーだしゃべって、ちょっとしたお食事。いや、充分か。自分では充分なのだけど……。

べつのケースでは「おすすめの場所へ」と話を向けられて、家電量販店の屋上へ連れて行った。心から好きで、すすめたい場所はそういう感じ。極力、お金はかけない。のんびりできて、贅沢といえば贅沢な感じもします。基本的に無益な人生をおくるヘラヘラしているだけの人間です。

それでも会ってくださる人や、ことばをかけてくださる人がいるってのあ、奇跡みたいなお話だと思う。損得勘定を最優先させる計算高い人間観が記憶に深く焼き込められているせいだろう。見え透いた損得ではありえない、いまある人間関係をできるかぎり長くたいせつにしたい。かんたんには見透かせてもらえない関係だけが残っている。

「なぜ自分と?」に、お互い明確な答えなんて出せないゼロである関係性の現在地。そこへ透過しえない実存の輪郭が反映している。みずからの実体がまなざされている。欲がないから、むしろ付き合いやすいのかな。ガキっぽいんだ。大人なら、それなりの利も考えて然るべきだね。ははは。でも、お会いできてうれしかった。ありがとう。

帰宅時、suicaの残高が777円。
昼間の交番に掲示されていた負傷者数は111。
死亡1。



12月21日(金)


神保町ブックセンターで都甲幸治さんと大和田俊之さんのトークを聞く。「ヒップホップと現代文学」。もう3日も前のことなので忘れております。メモを詳細にとるべきでした。ぼんやり聞いてしまう。大和田さんは「JP THE WAVYが欅坂くらい売れてほしい」的なことをおっしゃっていた。これはメモしていないのになぜか覚えています。

わりと多岐にわたる雑多なお話をされていたと思う。自分らの講義の話から、K-POPの話、村上春樹の話、テジュ・コールの話……など和気あいあいと。じつは大和田さんは帰国子女だとか、余談めいたことは鮮明に覚えている。余談は頭に残りやすい。

出てくる固有名詞は文学系が多く、欲を言えばもっとヒップホップの話を中心に聞きたかった。顔が入れ墨で覆われているお客さんとかいなかったから、仕方ないか……。でも学者のトークイベントに行くようなお客さんはおそらく、わからない話でも喜んで聞く好奇心の高め層だと勝手に思う。わからんなら、あとで調べるなりすりゃいいじゃないか。自分がそんな客だから、そう期待してしまう。

ヒップホップの話題でいうと、大和田さんがおっしゃっていた「ブレイクビーツは好プレー集」という比喩に感動しました。サッカーのゴールや、野球のホームランばかりをつなげた映像がこどものころから好きで、ヒップホップに惹かれるのもそういうことか!と。もともと既存の楽曲の盛り上がる部分を切り刻んで再構築してみせるブレイクビーツの発想が肌に合うはずです。

流れの中にある部分部分をくり抜いて繰り返し回転させる。息するごとに変わる景色をつかまえようとするみたいに。わたしには、時間にあらがうための音楽に思える。いまも、この時はどんどん過ぎる。そんなことはわかりきっていながらなお、絶えざるループによって一瞬をつかまえようと。

部分をよく見る。たとえば長い小説を読んでも、物語とはまるで関係のない細部の言い回しが記憶に残ります。物語そのものには興味がありません。こっからこうくる一文がいいなーとか、そんな読み方。論理性にもあまり依らない。飛び飛びの散り散り。

話が飛ぶ。

法然が仏説から「南無阿弥陀仏」を抜き出し普及させたのもブレイクビーツ的な発想といえるのではないか。仏説の要となる好プレー部分を抜粋し、これだけ唱えて回転させときゃいいんよ、と。そして、それを「踊り念仏」という歌と踊りに発展させた一遍は完全にヒップホップ聖人ではないか。なんつうアホなことを考えながら聞いておりましたとさ。


未来はいつも勝手で
つかまえようとするほど逃げるから
今がこのまま 続いていけばいいのにな
Modern Times


PUNPEEの『MODERN TIMES』はもう昨年のアルバムだった。ことしも終わる。帰路は神保町から半蔵門まで2駅ぶん歩く。



12月24日(月)


前歯の先がすこし欠ける。
歯ぎしりのせいだと思う。
欠損部が鋭く尖って、攻撃力がアップした。




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