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日記659



1月2日(水)


あけました。とんで2日。

地球といっしょにぐるぐるまわる。元日から、このでたらめったらない星とまわっている。じつを言うと去年もいっしょにまわっていた。いや、生まれてこのかたそうらしい。いや信じがたいことに、生まれる前からすでにそうだったらしい。べらぼうにでたらめな話です。確証のない噂話だね。What's goin’ on? おれに聞くなよマーヴィン。この地球は誰かさんの都合でまわり始めたらしい。いまもだ。健やかなる日も病める日もだ。ぼくは愛を語れないそれでもだ。いかなる孤独感に打ちひしがれようとも地球の上で全員いっしょにまわる。どこでもいっしょです。井上トロよりもずっといっしょ。宇宙飛行士はべつとして。岩城滉一とゾゾタウンの社長もべつとして。たまには地上から離れたい気もします。夢の宇宙旅行、きっとできる日がくる。バミューダ海域、ハワイはワイキキ、世界を股に!百聞一見、事件を発見、Let's go おばあちゃん!





1月1日にEテレで放送されたPerfumeの「コンピューターおばあちゃん」がちょっと話題です(3日の午後9時~再放送がある)。でも自分にとっては「コンピューターおばあちゃん」といえばPOLYSICS。ふつうに「みんなのうた(フレネシ)」だろ!という人もいれば、YMOだろ!という人もいるでしょう。もう知らない。メイのバカ。なんでもいいよ。Perfumeも好きです。いつもバカにされているメイだって、かしこい子だよ。メイかしこい。ほんとは知ってるから。ごめん。



夕食中、「肉がうまいっていうのはなんでもうまいね」と母が口走る。わたしは考える。長年の母との会話で涵養された読解力で要すると、これは肉の波及力のお話だ。あるいは肉の中心性。肉、その可能性の中心。裏を返せば、肉のおいしさはその波及力で計測できるという前提がひそんでいる。つまりその他のおかずまでおいしさを連鎖させない肉は、大した肉ではない。母の定義では、なんでもうまくなる肉がうまい肉なのだ。と、ここでさいきんリツイートした掟ポルシェさんのつぶやきを思い出す。




なるほど波及的な肉は「他のジャンルを包括できるほどのフォーマット」であり、確かに肉を中心に食卓がまわっている。肉にも使命としての異物が必要なのだ。おもしろい。逆に言えば、演歌はかつてご家庭のおいしいお肉であったのか。

などと解釈を転がしている最中に酔っぱらった父が問答無用でジム・ジャームッシュ監督の映画『ダウン・バイ・ロー』をすすめてくる。執拗なまでに。わたしは「ああ、うん、へー……」などと相槌をうちつづけている。祖母はテーブルにつかず、床に新聞紙を広げてみかんの皮をゆっくりむいている。いつまでみかんをむいているんだこの人は……と心配になるほどゆっくりと。なんらかの精神修養だろう。おなじリビングにいても四者四様のありさま。正月といってもなんら変わらない。父がちょっとお酒を飲み過ぎているくらい。

そのうち座ったまま眠り始める父。「寝てるでしょ」と母が指摘すると「寝てない!」と首を振るベタベタの夫婦漫才が始まる。傍から見ながら自分は「こういう短絡的な反意も心理的リアクタンスの一種だろう」などと観察をしている。あたりまえの日常にひそむ力学こそが観察に価する。日々はその繰り返しなのだから。日常の機微を少しでも統御できればマシに生きられると思う。という理由はあとづけで、引いて見ちゃうのは癖。

お正月はみんな早めに寝静まる。


人間が並ぶ。並ぶ。並ぶ。
陽気なおじさんが甘酒を配っていた。
もらう。熱くてすぐに飲めず。
すこしずつすする。

やはり年末からお正月にかけては不思議な感じがする。現実的ではないというか。ふだんとは異なる信念体系が立ち現れる。「そういうもの」か。自分は信が薄いのかもしれない。かたちだけです。初詣に行けども内容はない。手を合わせるだけ。それで十分。ご利益信仰はいらない。できるなら空虚なものを空虚なままで信じていたい。

変わらぬ日がめぐる。
すする。帰る。



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