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日記660


お湯で腹を満たしています。

新年早々、歯医者の予約と健康診断の予約を入れました。ことしは、よく動く年になります。まず身綺麗に。書店へ行くと「すぐやる」ということばが目につきます。すぐやる本。「すぐやる人」にでもなってやりますか。「なってやる」という大橋巨泉がごとき尊大さも隠さずに。タモリ、お前の番組に出てやるよ!

行動ばかりを称揚する人間は浅薄に見えてしまい、あまり良い印象を抱きませんでした。それは自分が性格的に内にこもりがちでプラクティカルな動きに重きを置いた生き方をしてこなかったからです。時間の使い方は他にもあります。なにもしない。平和裡にまどろむ。自足する時間をたいせつにしたい。

しかし行動しないとお話にならないことも確かです。自律的でないと周囲が放っておいてもくれません。「なにもしない」ためには人一倍の自律心を行動に移し、それを知らしめてゆくことが最低ラインです。わからせるまで。

思考の選択肢はいくらでもありますが、為すべき自己はいまここにしかいない。無時間的な内向の根は腐るほど心身に植わっているはず。心配しなくともなくならないよ。そのうえでさらにリアルな時間の中へこの身を浮かべる外向性と、両輪があればいいと思う。

エラーを楽しむように行動する。たぶん、肉体的な疲労や心労が身体に出やすいタイプなので自己管理もおこたらずに。自分の中に看守をひとり置く。いや五人くらい置いたほうがよいか。人件費がかさみそう。たまには他人に頼るかわいげも必要です。頼るの、へただな。依頼心のなさは祖母ゆずり。

自己の領分を他人に侵犯されたくないようなケチくさい思いが強くあります。表面の印象では「やわらかい」とよく言われる。でもその実、頑固者です。分厚い岩盤が内面の中心に据わっている。そいつをやわらかなことばと物腰で囲い、傷つけまいと守っている。外側が「やわらかい」のは、ショックアブソーバーだから。広い受容性と狭い排他性が同居している。

そのぶん他人の領分も尊いものだという認識があります。もちろん自他の境域なんてきっぱりと腑分けできるものではありません。わたしたちは思いのほかぐちゃぐちゃです。しかし輪郭くらいはなんとなく見る努力をする。煙のようにつかめなくとも見えることは見える。触れることはかなわない。見せてくれる笑顔のひとつだって尊い贈り物とみなすこと。人にはそうやって接する。視界に映えるものはすべて消え残った煙だ。人を焼いたあとのスモークと残り香の中で存在を許されている。


状況として必要ないときでも笑顔を浮かべること。怒りを感じているとき、みじめな気持ちのとき、世界にすっかり押しつぶされた気分のときに笑顔を浮かべること――それで違いが生じるかどうか見てみること。


ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』から。
友人のソフィ・カルに向けた、手紙みたいな文章です。


誰か笑顔を返してくる人がいるかどうか見てみること。それぞれの日に受けた笑顔の数をたどっておくこと。笑顔が返ってこなくてもがっかりしないこと。受け取った笑顔一つひとつを、尊い贈り物と見なすこと。


わたしは自分のことを「へらへらしている」と思う。「なんでそんなに笑うの?」と怪訝そうに尋ねられたこともある。そのときは「わかんないっす」と言った。笑いながら。いまなら自信をもってこう言うだろう。笑いたいからです。冗談ではない。軽薄なわけでもない。まじめに笑っている。そうしないと死んでしまう。生きるためだよ。

原美術館で1月5日からソフィ・カルの展示が始まっています。「限局性激痛」という写真とことばの展示。過去に一部だけ行った展示をふたたびフルスケールで開催しているそうです。ソフィ・カルはポール・オースターの小説『リヴァイアサン』に登場する人物、マリア・ターナーのモデルにもなっています。

なんにせよ、ことし正念場か。失うものはほとんどないので、なんでも身軽にやっていけたらと思う。軽佻浮薄と言われようがかまわない。どっちだよ。安い一貫性は捨てる。君子も豹変するのだ。でも信頼はだいじ。がんばってこー。


マニキュアを塗る88歳。
指輪も多少無理してはめる。

田中康夫が阪神・淡路大震災の被災者に口紅などの化粧品を配ったことを思い出します。それだって生きるために必要な物資です。笑いも、音楽も、きっと。祖母には「きれいだね」と気がついたら言う。でもあんまり気がつけなくて、ごめんね。たまにでいいか。観察のし過ぎも気持ちが悪い。

なんとはなしに1年前の日記を読み返すと、「太ったからやせる」と書いてありました。その通りに1年で体型は変わったから、ひとつ達成。なにより酒量が減った。「酒ばっか」が「お湯ばっか」に変わる。姿勢も変わった(さいきん)。身体の使い方がわかってきたというか。「ここをこうすれば背筋がビンビンになるなー」とか。三十路手前でおそいか。たぶん顔つきも声も変わりました。やっと思春期を脱するよ。ははは。





サミュエル・ベケットの無声映画『Film』を観ました。「存在するとは知覚されること」という哲学者ジョージ・バークリーのテーゼを基につくられたそうです。主演は晩年のバスター・キートン。「ベケット」なんつうと小難しそうな印象があるけれど、コミカルさもある。17分ほどの作品なので構えることなくサクッと観られます。犬と猫を追い出そうとするところで笑ってしまう。

むかし見た世にも奇妙な物語を思い出しました。細かな音を気にする音楽家が、さいごは自分の心臓の鼓動をうるさく感じて自殺するお話です。この映画では聴覚ではなく外側にある視覚を塞ごうとします。どちらも突き詰めると、行き着く先は死ではないか。

わたしは自分が「存在する」のではなく、「存在が許されている」という感覚をもっています。される。そのうえで、する。「する」と「される」は表裏一体だと思う。とかなんとか。考えつつ、年始の一本がこれ(なんでやねん)。ドゥルーズは読んでいません。



コメント

anna さんのコメント…
ジョージ・バークリーは、たしか量子力学の歴史で習ったような。「誰もいない森の中で木が倒れたら音がするのか」って議論が電子の存在と認識の関係についてあって、ハイゼンベルクの不確定性原理に繋がるんじゃなかったっけ。
この映画は初めて見ましたけど、私はジュゼッペ・トルナトーレの「鑑定士と顔のない依頼人」を思い出しました。雰囲気は似てるかな。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「誰もいない森の中で~」というお話、わたしは最初に独我論の説明で見た気がします。文系なので(笑)。バークリーは哲学の歴史でいうと経験論の人ですね。アナロジーとして哲学から物理学を説明するのはわかりやすいです。でもあくまで「わかりやすく」解像度を下げたアナロジーだと思っておくこともたいせつですね。

『鑑定士と顔のない依頼人』は劇場で観ました。ひとつの部屋でぐるぐるまわるカメラワークとか椅子に座ってうなだれているところとか、すこし似ているかもしれませんね。