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日記662


わざわざ景勝地みたいな場所へ行かなくとも、こんなんで十分だと思います。カラの駐車場、煤けた壁、錆、街灯の丸み、空、ひとつ低いところに建つ民家の屋根、電柱、電線、傾きかけた陽射しの色味。造作のないもの。用意のないもの。通り過ぎるもの。いつもは立ち止まらないけど、たまに立ち止まると見えてくるもの。日常の道筋にある、筋のない景色。

あらかじめお膳立てされたものに、お膳立てされた通りに触れても、お膳立てされたもんしか見えない。それはそれで悪くはない。参考になるし、すなおに「ああその通りいいなー」と思う。でもそんな「いいものはいい」ってな程度の物言いに、積極的になる必要を感じない。性分だろう。「くだらない」も、ほめことばになる世界がある。くだらなくてもいい。

“どんなものも、その90%はカスである”というスタージョンの法則がほんとうなら、最初からカスのほうを愛したほうが確度が高い。そのうえ運良くカスでないものまで見出せれば、100%楽しめる。カスを無きものにしちゃもったいない。ハッピーターンの粉の麻薬的なおいしさよ。貧乏性ではない。なんでも拾い食いをする気前のよい余裕をもちたい。星座のかたちを考えたやつのヒマさ加減を想像してみる。夜空を見上げながら「あれとあれをつなげて……」などと考案しちゃうやつはいかにも泰然自若、余裕綽々だろう。朝になれば「星見すぎて首痛くなっちゃったよ~」なんつって笑うんだ。本来、人はヒマだった。「太った豚よりも痩せたソクラテスに~」なんてケチケチした考えはナシにしよう。なにより二者択一なんて忙しない。太った豚も痩せたソクラテスも好きである。豚はかわいくておいしい子でトリュフを探り当てるやつもいるし、ソクラテスは賢くて嫌味なところがナイスな子。いや、べつに太ったソクラテスでも痩せた豚でも下半身が豚で上半身がソクラテスでも頭部だけ豚で首から下はソクラテスでも豚の姿をしているが心はソクラテスでも筋肉バカのソクラテスでも飛べない豚でも飛んでるソクラテスでも、なんでもよろしい。つづれる余白さえあれば。満ち足りたハングリーさで、白い余白に黒くたたずむ。わたしはできるだけらくに生きて死にたい。人生はそこそこ長尺な遊びです。ときおり手厳しいけど、それも遊びのうち。神意というただひとつのルールに則る。無制限一本勝負の、お遊び。



コメント

anna さんのコメント…
下半身が豚で上半身がソクラテスは想像するとちょっといやかも。
全然、関係ないですが、飛べる豚さんのジブリの映画の中で「さくらんぼの実る頃」ってシャンソンがありますが、あれ好きです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ケンタウロスの豚バージョンですね。馬よりかわいいと思う。

ぜんぜん関係しているので大丈夫です。1月に「シャンソン」と聞くと、わけもなく「新春シャンソンショー」と言いたくなります。シャンソンといえば自分の中では越路吹雪で、越路吹雪といえばシャンソンではない「ろくでなし」を思い出すんです。そして「ろくでなし」といえば志村けんが踊り出します。

ジブリだと、きのう『耳をすませば』がテレビで放映されていました。あの映画ではオリヴィア・ニュートン・ジョンの歌う「Take Me Home, Country Roads」が挿入されますが、オリヴィア・ニュートン・ジョンといえば「そよ風の誘惑」、あれ好きです。

こんな感じで、ゆるい関連から適当に広げる会話も好きです。