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日記667


鳩が翼を広げて飛んでいるときの脚のちょこんとした感じがとてもかわいいので、こんど注目してみてください。見上げてね。一瞬だよ。わたしからは以上です。という置き手紙を残してどっか旅に出たい思う。人に伝えたいことなんて、そんなことっきり。

日々の移動をする。いまだに歩く以上の速度が体感としてわかっていないような気がします。電車で移動すると、ひと駅でもトリップするような不思議な感覚になる。旅は速度を撹乱する。日常的な移動でも道程があるような、ないような。距離感がつかめない。

歩く速さと距離と時間はちゃんとリンクする。しかし自分の脚を使わない移動だとわずかな距離でも、体感時間にコンマ何秒のずれをきたす。高速で移動をすると、ずれの間隙にある「ついていけていない感覚」の矯め直しに疲れてしまうように思う。すっ飛ばした狭間の距離を、しばし整理する時間が必要です。

電車から降りて、まず深呼吸をする。移動先の空気をゆっくりと肺にとりこむ。そして2回ほどジャンプ。それから首をまわし、腕を交互に突き上げ顔を叩いて「ポゥ!」と甲高く切れの良い声を出す。あとはスキップでホームを駆け抜ける。これで「ずれ」は8割ほど解消します。


ところで、わたしはまいにち服を着ています。じつは服を着るタイプの人間です。いまも。でも「服を着る」とは不自然なことだと思う。人間以外の動物に着せれば、とたんに滑稽化してしまう。服を着た犬をたまに見かけるけれど、「本来はそうではない」感覚がどうしたってある。着せられている。コスプレみたい。

先進国のたいていの人間は、裸でいるより服を着ている時間のほうが長い。まるで自身が人工物にまみれている証左のように。広い意味では人工的なものとはすなわち、芸術の謂でもある。「artificial」と「art」。所与の自然ではありえないものたち。

着飾る。なんて嘘っぽいことをしている。そんな自覚もなく。シンプルで飾らない「ノームコア」の流行は、虚構への反意だろうか。おまえらな、人工的な生活の自覚が足りんぞ!と無駄に叫びたくもなります。「着せられる」というコスプレへの反意でもありそう。どこまでいってもコスプレだろ、とも思う。「つくられた自然」は、もっと嘘くさい。嘘をひた隠しにしようと、さらなる巧妙な嘘を発明する。あるいは過剰な嘘でごまかす。ファッションのそういうところはおもしろい。嘘は悪くない。ごまかしでもいい。だってワシら、被造物でしょ。

服装を選ぶときには、「きょうはどんな嘘をついてやろうか」という愉快さがある。オオカミ少年みたいだ。「自分に合う服」とは言い換えれば「自分に合う嘘」のことです。現時点でのなるべくイケてる自分のごまかし方を身に着けて、外へ出るんだ。わたしはこういう虚構の世界の人間です、と。愉快なことです。「人工」からは逃れられない。しかし生身は自然物でもある。「人工」は自然をわかりよく照射するための覆いだと思う。覆うことで「生身の肉体」という概念が生み出される。

なにもないところに覆いを重ねて「真実」がつくられた。「なんにもない」のに、ほんとうであるかのような天然だの自然だの。ことばも世界へかける覆いのひとつだった。パラシオスの絵みたいな。「ベールの裏」は存在しなかった。ベールそのものがリアル。真実は、からっぽでした。なにも隠れちゃいない。とりあえず「見かけ」だけがあればいい。いまはそんな認識。あたまからっぽのほうが、夢つめこめる。という歌を幼稚園生の時分から聴いていた。





「覆い」で思い出した曲です。ラップ。「COVER UP」。さいごNIPPSさんの表情と手の振りが溺れているみたいで失礼ながら笑ってしまう。指をさして決めるところもなんだか可笑しい。どうにもかわいいと思ってしまう。ぶっちゃけかわいい。さすが貫禄の異才、かわいくてすばらしい。他の方々はかっこよくてすばらしい。




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