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日記669


イカしたへこみが撮れました。こいつのかっこよさに、いったい幾人の通行者が気がつくのでしょう。みんな通り過ぎるけれど、こんなにかっこいいもんがここにあるのだよと大声で喚いたらおそらく通報されるのでブログに書いています。たぶん「ブログに書く」という仕方のほうが伝わりやすいし。なるべく警察のお世話にならず、かつ効果的な「お気持ち」の昇華を心得たいものです。自分も他人も不快にならずに済むような。なるべく。透明な仕方。

赤ちゃんが生後、最初に身に負う感覚は「不快」とされているそうです。書店で立ち読みした稲葉俊郎さんの『ころころするからだ』(春秋社)という本に書いてありました。長じても、感性はいつだって不快感から育ちそうなものだなーなんて飛躍したことを思いながら書店をあとにしました。

人は積極的にものを考えない。少なくともわたしはそうです。平和な時間は、ぼーっとやり過ごしてしまう。思考の胎動を感ずるのは決まって、不快なときです。「不快」というとネガティブな印象が濃厚なので少し平らに言い換えると、異物が侵入したとき。笑えるものでも、感動的なものでも、この異物をどう処すか。異物が端緒となって問うことの始まりに向かいます。

身体にうまく浸透していかないものをいかに取りこむのか、あるいは排するのか、繰り返し循環させて薄めるのか。思考という抽象物も、身体という具象から発される反応のひとつです。脳みそも胃や肺やなんかと同列の器官だと思います……。

「考え」の最初の最初は、自分が思っているよりずっと単純で原始的な反応です。異物感。不快。赤ん坊のときに得られた感受性。それが意識の網の目をくぐり、複雑なわたしに反映される。意識による「ひねり」を経て自己が生み出されているような。

「ひねり」の加減は人さまざまです。自分には馴染みようのない鉛のような異物も、強靭な顎で器用に咀嚼して芸術にしちゃう人がいる。絶え間なく五感から受けとる異物感に耐えかねて死んでしまう人もいる。わたしにとっては、まずわたしそのものが異物だった。こいつがいなければうまくいくのに。何の話をしているのだろう。異物が異物について考えている。ことばという、これも異物を使いながら。


人間のことばがドライヴされる下地には、抵抗が潜んでいるように思います。これは個人的な感想です。どんなにやさしいことばにもわたしは、発言者の中に何らかの抵抗が潜伏しているという前提で解釈します。

それは「不快」への抵抗です。自分が反発する厳しい物言いへの抵抗として、やさしく振る舞うとか。相手が「何をしないか」を読むこと。自分を疑わずに済むよう「しない」こと。疑ってしまうものとは決して同化しない。「疑い」という抵抗が個人の態度をつくるんではないか、という、いまのところの仮説。

心理的リアクタンス理論の延長みたいなものです。強い圧力は、かならず反発をまねきます。物理的にも、心理的にも。引力があるところには、斥力も生じます。ここでいう「抵抗」は、意志と変換してもいいかもしれません。抵抗なきところには、意志も生まれない。すべてが許されてしまったら、わたしはわたしでなくなってしまうよ。許さないで、抵抗したい。自分を確認するために。

しかし抗ってばかりいても始まりません。暫定的でも「これ以上、自分を疑わずに済む地点」から自分の態度が決定されます。自己を疑って受け入れず抵抗しつづけていたら、いかなる自己も提出できずに押し黙るほかありません。どんなポーズもとれない。

「疑わずに済む地点」とは、言い換えれば「これならもしかしたら自分を許せるかな」という程度の地点です。確証はないけど、たぶん自分はこれなんじゃないかなーくらいの態度。そして表出したそばからまた疑う。疑念、そして許しの循環がひとりきりのことばを連れ出す。知ることもなく。消えては浮かぶ。ただひとりの。

「疑い」はインプットで、「許し」はアウトプットとも言えそうです。このタイトなループでヒイヒイ言わす。自分や他人のことばの解釈方法のひとつとして「どんなことへの反発から、この発言をしたのか」という問いを用意しておくと見えてくるものもあるかもしれません。

わたしは疑り深いから「なにも言えない」と、よくフリーズしてしまいます。ことばで態度を決めるとき自分の前提には、「信じることを信じることなく信じる」みたいな意識がつねにあります。信にこびりつく不信もまるごと信じるような。


子供が現実を直視する必要がないのは彼が現実を信頼しているからであり、彼が現実に対する信頼を止めたとき、彼はもう既に子供ではない。


さいきん亡くなった橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出文庫)を読み直していたら、ここに線が引いてありました。萩尾望都を論じたところ。たぶん自分で引いた。他にも書き込みがあります。

すっかり忘れて新鮮に読めるからうれしいです。過去の自分といっしょに。メモ代わりのはてなダイアリー(非公開)を検索すると、9年前に読んだ記録がありました。大島弓子を論じた章には「白眉」とコメントがあった。以下の文章を丸でかこんでいる。


 世界のすべてが私を拒んだわけではない、私の意識がすべてを拒んだのだ。私の意識が、世界に一歩を踏み出すことを押し留めたのだ。そして、私はもう既に意識というものを持ってしまった。持ってしまった意識を、私は捨て去ることができない。それならば、私は世界を組み替えよう。私の“意識”が、もっと伸びやかに生きていける世界に。


あるいは、こんなところも。


人は自分を受け入れます。自分のすべてを自分として受け入れます。受け入れる自分、受け入れられる自分、それがひとつになるとき、その二つの自分の間にあるものが“愛”なのです。




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