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日記671


ことばの重要な機能のひとつとして、「みずからの不快感の低減」というものがあるのだろうと思います。ひどく嫌悪感を抱いている物事でも、ひとりでことばにして仔細に書き出してみるとある程度は落ち着きます。すべて収まるわけではないにせよ。内面の整理くらいはできます。勢いにまかせて虚空に罵言を叫ぶだけでもいい。ファック!

内側に渦巻く感情を外在化する。たとえば腹を立てている相手を想定しながら、言いたいことを好き放題に書く。伝える必要はない。それだけで胸がすくし、自分の難点にも気がつけます。感情の流路がわかる。流路がわかれば制御もしやすい。流れをせき止めないように。

つねづね、他人と自分は基底の部分では無関係なのだと感じます。いじけているわけではありません。ここに主観的な価値づけはないのです。いい意味も、悪い意味もない。現実世界の見方として、そう思っているだけです。無味乾燥な現実のお話。

家族であれ友人であれ、いかなる関係であれ、「自分ではない」という部分を冷厳に捉えています。あなたとわたしはちがう。こんなにシンプルな、あたりまえのことを何度も書いている気がします。書きながらいつも念頭にあるのは「死」です。自分の代わりに死んでくれる人はいない。死ぬのはどういうわけか他人ばかりです。

わたしの現実性の前提にはこうした認識があります。まったくちがう現実性の認識に基づいて生きている方も多くいると思います。それはそれとして、わたしとはちがう、べつの現実世界なのだと思う。

あなたの現実が知りたい。基底の共有に至ってきっと初めて、関係が始まるから。もしか、そこに真実のひと触れを見留めたら、わたしの認識が改変されるかもしれない。現実はひとつじゃない。むかし松田聖子が歌っていました。「あなたを知りたい。愛の予感」って。季節外れの、白いパラソルを思い浮かべます。


涙を糸でつなげば
真珠の首飾り
冷たいあなたに
贈りたいの


冬になると、わたしの手はずっと冷たいままです。冷え性なのかもしれないけれど、寒さに順応した結果かなーと前向きにも解釈できます。環境への適応力。爬虫類みたいな、冷血動物にちかい体温調節。いちおう哺乳類をやらさせていただいておりますが……。哺乳類の末席を汚しております。

手の温度から人はちがう。「ちがう」からといって、即対立するわけではない。と、ずっと思っています。短絡してはいけない。まず差違があるだけです。冬と夏はちがうけれど、わたしの考え方ではすぐに対立することはありません。

まず第一に「四季」という枠組みの中で、別々の位置を占めている季節としてそれぞれあります。四季の中へ個別に同居するもの。そのうえでむろん、対立的に比較することも可能です。対立が先行するわけではありません。冬と夏は、そもそも関係を結ばない。

順序を飛ばしてはいないか、よく注意を払います。枠組みのつくり方を疑う。思考の優先順位も人によってちがう。状況によっても変わります。相手のことばに内在している論理の順番に気をつけたいと思う。なるべくです。わからないことも多い。大半、わからないかも。すっ飛ばして自分の順番で伝えてしまいます。

冷ややかな指先は、熱の先触れがわかりやすいんです。触れるとすぐに、温度が伝わってくれる。冷え過ぎた場合は痺れますが、そこそこなら熱が発散している場所を探り当てやすい。同じように、そこそこ冷え切った考え方をしてみるとこの世界が放つ熱への感受性が上がりそうかも、なんて思います。ヘビがピット器官を使い、うごめくわずかな熱を感知して獲物を捕えるように。めちゃんこどうでもいい話、自分の干支はヘビだった。

「冷たい」という不快感から、温度が伝わりやすくなる。冷血動物の効用です。でもわたしはいちおう恒温動物。干支はヘビでも哺乳類。ひとつの類比としてのお話でした。冷たさと温かさも相補的なものです。

対立は「させる」ものであって、ひとりでに対立する物事はないのではないか。と、いまのところは思っています。どこかでかならず「対立的な解釈」を経ている。させる意図がある。自分か、あるいは他の誰かのフィルターを通して「対立させている」のです。極端な話、季節も空気も山も海も水も油も生も死もハダカデバネズミもウデムシもパリス・ヒルトンもニャホ・ニャホ=タマクローもとりあえずこの時空に同居しています。

そういえば、安倍晋三さんは総理大臣として森羅万象を担当しているそうです。ご自身でご発言なさっておりました。そ、そうだったのか。すばらしいと思います。お疲れさまです。わたしもできるだけ森羅万象に不可能ながらも想いを馳せたいところです。しかし行動様式は一個の小さな哺乳類にとどまります。それ以上のことはできません。

自分の「対立的な解釈」の引き金となる契機を理解したいと思う。自分を知るにあたって、ひいては人間を知るにあたって、そのトリガーがどこにあるのか。

1月の終わりごろに観た、地域の小学校の美術展でひとつことばを拾いました。「気持ちたち」という。絵の説明として、男の子が書いていたことばです。たくさんの「気持ちたち」が集合して自分ができあがるそうです。目の覚めるような洞察だと思います。

「気持ち」を擬人化するようなことばづかいに清新さを感じて、その場でメモりました。気持ち、ひとつひとつを区切って、複数化するイメージ。ひとつひとつが、特につながりもせず同居している。力を加えなければ矛盾もしない。狭いフレームで無理につなげようとするから、対立を来してしまうのかな。

この「気持ちたち」は、矛盾を厭わないことばであると思う。ぜんぜんちがう、ぜんぜん関わりのない気持ちたちがある。その気持ちたちを、関わりのないままで存在させること。楽しい、哀しい、おもしろい、怖ろしい、いますぐ死にたい、永遠に生きたい、ずっと眠りたい、まだ起きていたい、もっと話したい、もう何も言いたくない、どこかへ行きたい、いつまでもここにいたい……。

一瞬一瞬の行動や状況によって、気持ちの順序は絶えず入れ替わる。すべてのことが同時に生起しないために時間は存在しています。「すべてのことが同時に生起」というのは、宇宙の始まりとされるビッグバンのような爆発のイメージです。

おそらくこの世界では、もう二度とすべてが同時には起こらない。だから、きっと、安心していい。つながらなくてもいい、関係のない空間がいまも宇宙では拡大している。「気持ちたち」もすれ違って離散している。

「芸術は爆発だ」と言った岡本太郎は、もしかしたら自分の中にあるすべてのことを同時に生起させるために芸術活動をしていたのだろうか。世界を、開闢させるために。と考えると、たくさんの「気持ちたち」を一枚の絵に凝縮させようと意図した小学生の男の子の絵画は、自分の宇宙を爆発させていたようにも思う。自分の時間をひらいていた。

奇妙でかみあわないままにたゆたう「気持ちたち」を、掬って束ねる。ことばを綴るのはそんな作業にちかい。生まれてからすでに、現実は束ねようもなく散逸していた。わたしはもう、かつて爆発してしまった産声の燃え殼を拾うように生きている。焼け跡のなか細心の注意を払い、四つん這いになって。冷たい指先で、延々と。





コメント

anna さんのコメント…
確かに「気持ちたち」って、「~たち」ってつけるだけでなんか大勢のいろいろな気持ちが集まって何かを作り上げているような意味に感じてしまいます。不思議です。
「悲しみたち」「喜びたち」「とまどいたち」「驚きたち」とか、面白いです。こんど使おう。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「涙くんさよなら」みたいな擬人化ですね。自分の中に、それぞれの気持ちたちがそれぞれとして素知らぬ顔で同居しています。まるでわたしたちのように。外に出ると知らない人がたくさん歩いています。知らない気持ちたちもいっしょに連れて。面白いです。