スキップしてメイン コンテンツに移動

日記674



昼食は高島屋新宿店で買った野菜ジュースとバナナ。2階建てバスの上側、先頭に乗った。雨の中を走る。2階の先頭は天井が急に低くなっていた。ぽっこりと。それに気がつかず、頭をぶつけた。頭蓋骨の鈍い音を聞く。先に座っていたギャル風の派手な女性もぶつけ済みだったようで「あたしと同じことしてる」と言われ、笑って会釈をした。

休憩時に乗り降りするたび、低い天井のことを忘れてしまった。東京から大阪までのあいだ3回の休憩があり、はじめと同じことを3回した。3回ともに頭をぶつけ、3回ともに笑われる。知らない人から。笑ってくれると助かる。でもそのたび、振り出しに戻ったような気分になった。最初の新宿へ。

さいごは「またぶつけてる」と呆れたように指をさされた。「わざとじゃないんですよ……」と頭を押さえながら小声でつぶやいた。彼女はわたしを笑うだけ笑って、バスをあとにした。着いたのは大阪駅で、振り出しには戻っていなかった。

わたしは「頭をぶつける男」として彼女の人生に登場した。そのまま単調に「頭をぶつける男」を演じ切り、幕が下りた。ギャルファッションの後ろ姿はだんだんと大阪の夜の街並みと区別がつかなくなっていった。




いつも行ったり来たりしている。言ったり聞いたりもしている。自分だけ。大半の人間とは一方向で別れる。大半のコミュニケーションは一方通行で流れる。大阪の国立国際美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの“Lifetime”という展示を観た。それは「DEPART」と「ARRIUEE」のあいだに挟まれた部屋だった。出発と到着。

手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』の最終話を思い出していた。月並みな感想かもしれない。「この汽車は乗ってたのしいもんじゃない、おそいし、つかれるし、それに片道だけ、つまり行ったきり帰りの汽車がない」。「そんな不便な汽車に誰が好きこのんで乗りますかね」。最終話のタイトルは「人生という名のSL」だった。

「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という本間丈太郎のセリフをふだんからよく反芻する。わたしは亡くなった友人を惜しまない。悔やまない。彼の死は彼だけのものだ。他人が口を挟む性質のものではない。「まだ未来があった」とは思わない。なんの可能性もない。あの時点が彼の到着だった。以上。

誰の死も解せるものではない。自分の生きた時間もそうだ。どんどん過去になる。2019年の2月は、もはやない。もはやないものとして、2月の意識はいまここに明滅する。そう思って生きている。ぜんぶのあとの残響としてのいま。他者の時間も含む過去がなければ自分の現在形もない。たとえ現実にはない、ひとりきりの思い込みに過ぎぬ時間だったとしても。


今日もまた誰もが何処かへ行く途中で
終わりと始めのあいだに漂うこの星の途中で
生まれて時は過ぎ 皺くちゃになりながら
笑って泣いて途中でいなくなる
終わりはまだ見えない 始まりはもう過ぎた
「もう」と「まだ」をめぐり踊るわたしたちの現在地
なにもわからないまま生きるしかないらしい
ここは地球という名の美しい流刑地


数年前にこんなラップを書いた。自己引用は恥ずかしくてキモいと釘を刺しておきつつ、思い出したから貼る。下敷きがたくさんあって「自分で書いた」とはとても言えない詩だった。いつも過去の手を借りる。書くことは生者より死者に負うところが大きい。

久しぶりにyoutubeを見たら、「早口が惜しい」というコメントがついていた。その通りだと思う。指摘に感謝したい。ことばを詰め過ぎる傾向がある。もっと簡素にできた。声の出し方も、少しまともに近づいたからうまくやり直したいけれど仕方がない。

それは置いといて。

なんとなく、この「もう」と「まだ」がボルタンスキーの「出発」と「到着」に呼応するように思えた。僭越にも、似ていると。でも同じものではない。別物。心臓の音にも個体ごとの細かな差違があるように。




この電球は1日経過するごとに2つずつ消えるのだという。展示が終わるころには真っ暗になる。ボルタンスキーの展示は5月6日までやっている。終了間際にでも、もういちど観たらまたちがう感想を抱くだろうか。

単に「電気が消えた」と、それだけのことかもしれない。そんなことはまいにちやっている。夜になれば点す。眠る前に消す。電球は閉館時間がきてもつけっぱなしなのだろうか。お母さんに叱られるよ、ボルタンスキー。たぶんつけっぱなしなのかも。洋服やティッシュのようなものも散らかっていたし、「ちゃんと片付けなさい」と叱りつけられることは覚悟の上か。

ともあれ「まいにち電気を点して消す」、これが重要だと感じる。“I never sleep, 'cause sleep is the cousin of death”とラッパーのNasはリリックに書いた。俺は眠らない、眠りは死の従兄弟だから。あるいは「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」とレイモンド・チャンドラーの小説『ロング・グッドバイ』にはあった。日々、少しだけ生きた夜の終わりに。電気を消しておやすみを言うこと。

ボルタンスキーは、照明をめぐる時のサイクルを“Lifetime”へと変奏して見せた。点って、消えること。生きては死ぬこと。安直かもだけど、そんな作品なのだと感じる。時間のデフォルマシオン。











心臓の拍動音がえんえん鳴り響く中で観た。

案内に従って最下層のフロアへ入室すると、いきなり顔を布で覆われたおっちゃんがめっちゃえづく映像が流れていて、どうしようかと思った。あかん、おっちゃんえづいとる、ずっとえづいとる、おっちゃんあかん、死ぬでこれ、と似非関西弁で思った。

どうしたん!と、かなり心配になったが、おっちゃんはえづくのをやめなかった。ひたすらに。ほんでなんか口から出していた。ヘッドホンでおっちゃんのえづきボイスを聞いた。おっちゃん、ヘッドホンで聞かさんでもええやん……。

瀕死のおっちゃんを心配しつつ、前へ進もうとすると、居酒屋の紐暖簾みたいな入り口から「ヌッ」と湿度計のような機械を持ったおそらく美術館の係のおっちゃんが現れてビクッとした。おっちゃん、ビビらすなや……と思った。このおっちゃんは健康そうで安心した。

少し屈みながら紐暖簾を手の甲で横によけてくぐると、つい「やってる?」と言いたくなる。しかしここは居酒屋ではなかった。あれ?もしかしてあのえづいていたおっちゃん、宿酔い……?いや居酒屋ではなかった。

薄暗い空間で、心臓の音がいっそう大きく耳に届く。なにか鈍いラッパのような大きな音もする。奥にある海の映像の音響だった。受付でもらったパンフレットにはこうあった。


南米のパタゴニアで撮影された三つの映像で構成されたインスタレーションである。ボルタンスキーはラッパ状のオブジェを用い、クジラとコミュニケーションをとることを目指した。クジラからの返答を期待してのことである。パタゴニアでは、クジラは世界の起源を知る存在である。ボルタンスキーにとって、この作品は到達できない知識を探求するものである。


なるほど、クジラからの返答を期待しての所業か。さようであったか。完全に得心がいって、ぼーっと海の映像の前で立ち尽くしていた。だだっ広いスクリーンに囲まれ、自分もクジラからの返答を期待していた。ゴドーを待つように。

フィリップ・K・ディックは、「現実とはすなわち、あなたがそれを信じるのをやめても消えないもの」と現実を定義づけた。クジラからの返答は信じるのをやめたら消える。「来やしない」と言ってしまえばそれまで。現実的ではない、ロマンの探求だった。

しかしそんな空想も含むすべてが、心臓の音の上にある。この拍動は否応がない現実で、信じる間もなく存在していた。そういう空間だった。生きている全員が例外なく、心臓を鳴らしながら動いているというただの事実。うまくいき過ぎてあまり意識にのぼらない現実。クジラとの対話は逆に、うまくいかなさ過ぎて意識化できない。

「うまくいく」とは言い換えると、「パターン化できる」ということ。心臓は一定のパターンで動きつづける。クジラとの対話はパターンが見えない。パターンを十全に把握しきってしまうとそれは意識から消える。パターンのないものはそもそも意識化できない。

ボルタンスキーという人は、心臓の鼓動のような意識から消えがちな現実のちいさなパターンを偏執的なまでに繰り返し変奏しながら、そこを足がかりに非現実的な意識化できないところにある記憶を紐解こうとしている作家なのではないか。そんなふうに思った。冷たい現実の内省を足場に、ふっと世界を跳躍させるみたいにして。




電球でできた派手な「来世」に笑っていた。嘲笑ではなく、ふつうに楽しんだ結果として。神妙なツラで観るばかりではつまらない。アートのユーモラスな部分が好きだ。わたしにとって軽口を叩けない時間は、ただただつらいだけ。

“死”が題材だとしても、深刻ぶるのは性に合わない。祖父の葬式でもお坊さんの木魚に合わせて膝で踊っていた。リズムがあればとうぜん刻まなければならない。ボルタンスキーにもいたずらっぽさは多少あったと思う。映画のタイトルをもじった「ラ・ラ・来世」というギャグが浮かんだ。その場ではそっとお蔵入りにした。

居並ぶ電球を見ると、飲食店などの看板の側面についていて夜になれば光るやつを連想してしまう。矢印状のやつ。日常へと想起を広げてこそのLifetime。「いやちげーから!」って怒られるかも。でも電球の光る記号には、夜の街の猥雑な影がどうしたって滲む。

大量にぶらさげてあった洋服や黒い衣服を積み重ねた「ぼた山」もそうだ。古着屋に行くと「人が吊るされている」と思う。すべての衣服に誰かの過去の痕跡がある。あの作品はすぐそばの日常だ。わたしはほとんど安い古着しか買わない。ずっとそういうものを身に着けている。前の持ち主の姿を借りるように購入する。中には遺品もあるかもしれない。古本もそう。




数年前にこんな書き込みのある本が古本屋さんに複数あった。確認できたのは岩波文庫、平凡社ライブラリー、ちくま学芸文庫、中公文庫の何冊か。どの本にも母の命日と、葬儀の日から経過した日数が記されていた。自分の読書傾向に沿うものばかりだったので、棚から掴めばこの書き込みがあった。驚くほど趣味が符合した。

写真は種村季弘/矢川澄子訳、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界――マニエリスム美術(下)』(岩波文庫) 。書物とは不定形であやふやな時間をいくつも束ねた紙だった。消費するだけの情報ではない。頁の上に綴じられた、他人の過去の時間を購入している。読書とは、そこへ自分の時間をあけわたす行為だと思う。とくに古い本は、多くの他人の時間を経由している。




ボルタンスキーっぽい、と思った電話線。これは万博記念公園駅。Lifetime、おもしろく観終えた。併設の“見えないもののイメージ”という展示もよかった。あまりアートに詳しいわけではないが、荒川修作の棺桶作品は遠目からでもすぐにわかった。

そして昼食。なぜか店員さんがデザートをサービスしてくださりありがたかった。茶目っ気のあるおばさまだった。直感的には「そんなそんな」と申し訳なく思ってしまう性格だけれど、すなおにいただいた。おいしかった。すなおに。お礼を言い、さらに帰り際ふりかえって、会釈をした。




コメント