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日記675



ある分野に特化した趣味性の強いお店に平気で足を運べるようになると、そこに置いてあるものが自分の趣味でもあるのだろうと思う。これあたりまえか……。ふつうは逆で「趣味だから」という自認がまずあって、趣味性の強いお店へ赴くのかも。

ともかく「他人の趣味が色濃く反映されている場所に行きたいと思える分野が、自分の趣味分野でもある」という、とうぜんの発見は自分にとって「確からしい趣味の定義」だと感じたのでした。趣味の発見は、欲望の発見でもあると思う。




聞こえる声に反応しているだけで、自分から声をあげることはない。ずっと黙っていたい気分もある。日曜日に古市憲寿さんをテレビで見かけて、「この人は他人の欲望を感じとることに長けているんだな」と思った。そして感じとった相手の欲望をすなおになぞる。無意識的だとしても。疑似餌のようなふるまい方に見えた。いいよ、これが欲しいんでしょ?みたいな。

すぐにテレビは消したから、これはいい加減な印象のお話。自分の見たいものを見ている。古市さんは、非常に純粋にすなおにスムーズに「聞こえる声に反応しているだけ」の人間に見えたのだった。賑やかそうな世界にいるけれど、まずあるのは、息をひそめるような観察的ものごしなのかもしれないと。そしてそこから上澄みだけを掬う反射神経の軽み。

きのう、「なる」ことを思った。それそのものに自分がなってしまえば、それについて差し挟むことばはきっと考えなくなる。ことばで対象を云々することは、自分がそれになれない、ないし、なっていないということの証左ではないか。そんなことを思った。

たとえば楽しくガンガンに盛り上がるパーティー会場の中で、その場を客観的に説明するような発言をするとしらけてしまう。空間をモニタリングする部外者のごとき視点からの発言は、「冷めたやつ」と思われるだろう。ベタにパーティーの一員として染まりきれていないために、距離をおいて状況が説明できる。

言語偏重の人間は「なれない」人間なのだと感じる。ことばは、自分がその対象になれないところから駆動されるようにも思う。まずは距離を認めるところから。「なれない」は、「成れない」も「馴れない」も「慣れない」もふくむ。

逆に行動は「なる」ことなのだと思う。言語のない生きものの世界にはたぶん「なる」しかない。動くことが本義で、すべてを即実現させようとする環世界なのだろうと想像する。想像するだけでほんとうにそうかはわからない。

「なる」動的な領域と「なれない」静的な領域をちょうどいい時間配分で循環させたい。自分は「なれない」が肥大している。まだ人間にすらなれていない感覚もある。にんげんってなに。与えてもらった名前にもしっくりきていない。わし、だれ。

釈然としないまま人生が始まっているし、予想される終わりも釈然としないし、馴れ合いはごめんこうむりたいし、「成人」になったつもりもない。ついでに学校ないし家庭もないしヒマじゃないしカーテンもないし花を入れる花ビンもない。





あと嫌じゃないし、カッコつかないし。

ことばは動物的ではない。あとから混入してきたウィルスのような別物であるいっぽうで自分はヒトという動物でもある。第一に「動物」という部分の物理的なリアリティを重視しておきたい。ひとまず生きているうちは。ことばみたいな副次的な産物は、後景にしりぞけるべきだろう。「あとで思う」なら大丈夫。ことばになるものは、すべて「残ったもの」なのだ。

もうなれない過去や、まだなっていない、あるいはなりえない先のこと。「いまここ」は直視できない。まぶしすぎて盲いてしまう。ヒトのことばはどれも、みずから生成できる可視光の範囲の限られた投影であり、あこがれの一種なのだと思う。どんな言説にもきっと「なれない」あこがれの衝迫が深奥に沈んでいる。荒川洋治の『文学のことば』(岩波書店)、冒頭の文章を思い出す。


 ことばで表現されたものは、現実そのものではない。似ているが異なるものだ。いま見たもの、触れたことはこういうものであってほしい。そんな夢と期待が、ことばとなって現れるのだ。小説も評論も詩も、文学のことばであることに変わりはない。区別しないで見ていく。


自分がことばを見るときも同様に区別しない。ヒトの夢や期待やあこがれ、つまり欲しているもの、その欲望を読みたい。欲望を読みたいと欲望している。と書くと欲望まみれのド変態みたいでいい。適当に図書館で借りた宇野信夫のエッセイ集『人の生きるは何んのため』(講談社)にも、たまたまこんな記述があった。


 それから「芸術」は「あこがれ」であるとも思う。「芸術」に限らず、人生はこの「あこがれ」でもっているのだと思う。p.275


それがなければ、「あこがれ」を孕んだことばがなければヒトは生きていけないのだと思う。「あこがれ」を読み取ることが趣味であるらしいわたしは、きっと他人の欲望に反応しているだけで自分から欲望することはない。

でもえらい精神分析のおっさんいわく、ヒトは他人の欲望を欲望するそうだから、それもあらかじめことばの機能として折り込み済みのあたりまえのことかもしれない。どこまでもことばに操られているみたいです。ちんちん。




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