スキップしてメイン コンテンツに移動

日記676



二代目多肉植物(名付けて二谷くん)です。TANITAでもいいかな。TANITAの場合「くん」はつきません。100円ショップのやつ。昨年から育てているので、すでにだいぶ伸びました。写真を日常的に撮りだした2016年の秋頃、手始めによく撮っていた初代はお亡くなりになりました。ざんねん。生命力を過信して2週間以上ほうっておいたら枯死。

あたらしい多肉を同じ鉢に植えています。なくなれば、またべつの生命の居場所ができます。人間も同様、犬に喰われるほど自由です。薄情に思われそうですが「代わり」ではなく「べつの」生命の居場所です。交換ではない、存在の移動。あるいは継承というか。ちいさな鉢にも過去が堆積する。鉢という場所がある限り。


 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。


スーザン・ソンタグの本の一文を、そっと忍ばせた私信を送った。『良心の領界』(NTT出版)序文より。自分の私信は引用が多いけれど、煩雑になるためいちいち出典は記しません。思い浮かんだものをサンプリングするように継ぎ目なくそこにある文脈へ嵌入してしまう。完全犯罪です。もはや自分のことばでもいいと思っているフシも、ややある……。

『良心の領界』の序文は「若い読者へのアドバイス」というかたちをとっています。そしてそれはソンタグ自身が「ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある」と。


 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。


わたしは発言を、他人に伝えるときもたいてい自分に言いきかせるためにしている気がします。自分にきかせたくない発言はしない(検閲を忘れない、警戒しつつ)。とどめておきたいことは、まず自分の外側に置く。どんなことばも、伝わるときにはかならず「他」を経由しているのだと思います。自分自身にきかせる場合も例外ではありません。

外側をつたって初めて腑に落ちる。それが「伝わる」ということです。またあたりまえのことを書いているような……。とりあえず外側におん出さないことには何もきこえてこない。赤ちゃんは母親のお腹からおん出されて初めて「生まれた」と言われます。

わたしたちは創めにおん出された存在です。ことばも同様に外側に出して生まれる。それを置くことのできる経由地へ。きくためには、どこか経由地が必要なのです。まず形にして、検閲はそれから。

会話を交わしてくれる相手は、自分のことばの経由地として存在します。そして自分もまた相手のことばの経由地になります。経由地として、ドバイの空港ぐらい広々と豪華で充実していたらモテモテだろうと思います。

あの人を経由すれば、ドバイ帰りのほくほくしたことばが返ってくる。ホスピタリティあふれるエミレーツ航空のファーストクラスに乗って。みたいな。相手がドバイだと、だんだん自分もほくほくのドバイと化してきます。相乗効果でバブリーな羽振りです。なんでも言えちゃう!

むろん、この比喩は安直な「ドバイ=金持ち・余裕・めっちゃリゾート」というイメージのみに基づいています。じっさいのドバイは知らない。そういえば『地獄のドバイ――高級リゾート地で見た悪夢』(彩図社)という本をだいぶ前に読んだっけ。峯山政宏著。高野秀行さんの書評から手にとった。

わたしの中のことばの窓口となる港を自己評価でたとえるなら、波照間島の空港みたいに簡素で、ただただヤギが鳴いているだけです。さとうきび畑がざわわしています。何を言われても「めー」しか返しません。もしくは「ざわわ」。

その味を粋に感じるか否かで人は分かたれます。じっさい波照間島の空港にはヤギがいたそうです。むかし友人からききました。現在はもう路線がありません。ざわわ。

つまりはそんな、ことばの旅路の繰り返しが会話です。人から人へ。経由から経由へ。たぶん、相手から返事として聞かされることばは、多かれ少なかれ自分のことばの変種なのだと思います。

相手の中で、自分のことばがどんな旅程を経るか。それで様変わりする。検閲の厳しい空港では弾かれることもある。軍や武装警察が配備されている港もあります。腫れぼったい領域は誰にでもある。ときには、はしゃいだことばを持ち込んで保安検査員に絞られてしまうかもしれない。

旅行の計画はあまり立てません。縛られたくないから。ふらっと行って、その場の思いつきで楽しむ。人から受け取ったことばも、たまに無計画な旅程であさっての方向へふりまわす。それが功を奏すこともあります。怒られるときも。

冗談はほどほどにして、ゆっくりとぼちぼち連れ立ってまわる、くらいがちょうどいいのかな。なんでもない感じで。会話とは、まず他人のことばを連れ出すことです。そして返ってくるのは連れ出された自分のことば。その自他の配合ブレンドがちょうどいい相手だと、心地のよいやりとりがつづくんだと思います。

そしてもしかしたら、ひとりの部屋で静かに書きつけられおん出された書記言語は「誰かここから連れ出してくれ」という祈りが焚べられたことばなのかもしれない。


連れてってどっか遠くへ
振り切って現実を





何かを掴むなら 何か捨てなきゃ
何も掴めない 何もできない


倫理や論理など振りかざす前に。
と深キョンが言うとります。




きょう2019年3月10日(日)は東大で野崎歓先生の最終講義がありました。演題「ネルヴァルと夢の書物」。手帳に書くだけ書いて行っていない……。写真は、もうすぐお子さんが生まれるという友人になんとなくおすすめしておいた野崎歓先生のエッセイ『赤ちゃん教育』(講談社文庫)です。うちに黄色い講談社文庫はあまりなくて、河出文庫かと勘違いしていました。反射的に「黄色い文庫=河出」になっています。古めの河出文庫は青。

3月24日にもなにか野崎先生を中心とした特別なイベントが開かれるそうなので、これは行ってみようかと思っています。興味の向くものはすべて貪欲にメモをとるのですが、ほぼスルーしてしまう。ぜんぜん貪欲じゃない。出不精はよくない。健康によくない。



コメント

anna さんのコメント…
谷くんは、亡くなっちゃったんですね。残念です。
私は飼ってる猫のためにキャットニップを育ててましたが、半年前にやっぱりなんか元気が無くなって、とうとう枯れてしまいました。でも、枯れる前に花を咲かせて、たくさん種を落としてくれたので、そのうちたくさん芽が出てきて、今では2代目が鉢植え6個に増殖してしまいました。わさわさしています。
TANITAも元気に大きくなったらいいですね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
残念でした。だけど谷くんと並べていたスコッチシダは生きています。それ以外にもクワズイモという観葉植物がいます。写真を載せようと思って忘れていました。

猫がいるんですね。わたしもいずれ飼いたいと思っています。気味が悪くなるぐらいかわいがっても素知らぬ顔でいてくれるのは動物や植物くらいです。それか人形とか……モノ。

人間だったら「気味が悪い!」と言われてしまいます。下手をすれば裁判沙汰です。あるいは両想いになるか。完全無欠の片想いが人間同士では成立しないのです。人間関係では力の均衡を心がける。

動物や植物は期待のいらない純粋な片想いの対象としてあります。二代目キャットニップが茂って猫さんもウハウハですね。TANITAは、もうひとつ買って増やそうと思いました。名前はTANITAにします。そう呼ばれたから。笑。月に一度は写真を載せようと思います。