スキップしてメイン コンテンツに移動

日記678



錆びたポール。干からびて錆びと同じ色になった小さな花弁。パサパサの雌しべ、雄しべ。茂る椿の葉。こんなもん撮る奴はそうとうなスケベにちがいないと思います。こいつはいいスケベをしている。とんだスケベ野郎だな!

「いいスケベしてますね~」という褒めことばが流行ればいい。ワレ、ええスケベしとんのう?ええ、わたくし、いいスケベをしている人間でございます。不肖ながら、スケベやらさしてもらってます。自作自演。でも、胸を張って。

スケベ始めました。

春だから。ことしからスケベ歴のキャリアを着々と積んでいきたい所存。スケベの階段のぼる。きみはもうスケベ野郎さ。「スケベ暦」という暦をつくってもいい。オリジナルカレンダー。スケベな時間を生きる。誰もがあこがれるスーパースケベタイムを。星野源のラジオネームにあやかりたい。

資本主義経済による賃金の論理で断片化された時間とはちがう、まったく別の、より大きなタイム・スケールによる「スケベ時間」を生きる能力がヒトにはあるんです。遥かむかしの人類が生きていた時間はそうでした。太古の人間は、スケベだった。

神は「スケベあれ」と言われた。するとスケベがあった。世界はまずそうやって創生されました。人類の遺伝子配列に、いまもなお刻まれています。「su/ke/be/dayo」と、ローマ字表記で。スケベな時空間の存在する証としての痕跡。肩甲骨が翼の名残であることと同様です。

しかし、現代人のスケベ時間は衰退の一途をたどっています。このままではやがてスケベも消えてしまう。人々が独力で空を飛ぶ能力を失ってしまったように。かつて人は疑いもなく自由に宙空を飛び交っていました。その翼の喪失をとりもどしたいと強く願う一心から、航空力学が発達したのです。いつの時代も人間の欲望の裏には、ありもしない過去の喪失からくるあこがれが充溢しています。

人々がありもしない過去に焦がれなくなってきている昨今。夢見るころを過ぎて、社会に出た現代の人々はおそらく大きく2種類に分かたれるのでしょう。かたやオトナになる人間。かたや、スケベになる人間です。わたしはどうやら後者の人間だったようです。

いや、オトナでもあります。いちおう。誰にでも両輪ありますか。いつなんどきも胸部の頂でひっそりと丸くなっている、わたしたちの乳輪、この横並びの一対と同じように。誰もがオトナであり、スケベでもある。誰もが乳輪は右にあり左にあってひとつである。表裏一体。そんなこの世の中。なのですね。

だけど、社会が手ずからスケベを見つける能力を放棄しつつあることは確かだと思う。わたしは、失われたスケベを求めたい。ありもしない過去を。いつまでも。ひとりの人間として。だって、スケベの力はすごいんだ。たったひとりで、空も飛べる。たとえばそう、過去に三島由紀夫賞などを受賞している中原昌也さんが満を持してtwitterでつぶやいたことば。「コカインやるより、股間にイン!」と。つまり、そういうことなんだ。ひとことで言い表すと、これに尽きるのだと思う。やはりプロの表現力はとうてい真似できないものがある。「コカインやるより、股間にイン!」。この文字列を前に、いったい何ができよう。これ以上、何が言えよう。ただ黙してひたすら平伏するのみである。




ちょっと何を書いているのかよくわかりませんが、自分が何をしゃべっているのかわかっている人間に話し相手は必要ないから大丈夫。つねに「誰かが教えてくれるだろう」と信じて、自分でもよくわからないことを書いたり言ったりしています。たまに啓示が降りて教えてもらえる僥倖もあります。会話とは、お互いが何を言っているのか教え合う行為なのではないでしょうか。良くも悪くも、教わり合う。その往還。


3月16日(金)


横切った猫2匹。
1匹は墓地、1匹は神社の北側。

夕方だった。ひとり神社を歩く。「目がまわる」といわれるが眼球のかたちは丸いのでまわるのはあたりまえだ。少しずつまわるからあたりを見回せる。「目がまわる」と発するとき、まわっているものはあきらかに目だけではないことからして、不十分な言い回しである。「世界が揺らぐ」とか「うわんうわんする」とか言ったほうがまだ正確さが増すだろう。……などと、どうでもいいことを気難しく考えているとき横切った。猫は神社から民家の庭に入って眼球をまわす間もなく視界から消えた。

ラーメン屋に置いてあった本に「世界は知らない人でできている」と書いてあった。TEDブックスというシリーズ。キオ・スターク著『知らない人に出会う』(朝日出版社)。あまりラーメン屋らしい本ではなかった。

小学生のころ通っていた長浜ラーメンの店では、コロコロコミックが読めた。土曜日だけ280円のとんこつラーメンを頼んで、ゴーゴーゴジラマツイくんの頁を真っ先にひらくことが習いだった。それか、少年ジャンプ。もしくはこち亀。おそらくラーメンの汁がこぼれたのか、全体的にゴワゴワのこち亀だった。これがわたしのラーメン屋だ。

あそこには、TEDブックスなんてこまっしゃくれたもんは置いていなかった。豚骨スープの香りがすると、ゴーゴーゴジラマツイくんを思い出してしまう。ゴーゴーゴジラマツイくんを読ませてほしい。これがいわゆるプルースト効果というものか。

わたしがもし研究者で、現在「プルースト効果」として知られる嗅覚・味覚の刺激から記憶の想起へと紐付く現象を、そう名付けられる前に発見していたとしたらたぶん「ゴーゴーゴジラマツイくん効果」として広めていたことだろう。ダサいネーミングにならなくてよかった。コロコロコミックじゃなくてフランス文学でよかった。

知らない人がつけた現象の名前をそのまま拝借する。もとより知らない人がつくった「日本語」なることばを教え込まれている。知らない人のことば。知らない人のつくったものがうちにはたくさんある。まず家から知らない人の手による。籍を置く国も、もともと知らない人がつくった。世界は知らない人でできている。そんなことすら知らなかったような気がする。いや忘れていたのか。情報化とかいうけど、わたしは永遠にあなたのことを知らないままで生きていくのでしょう。




コメント

anna さんのコメント…
15日の文章を読んでて、いろんな人とか本とかから、引用したり利用したりして文章を構成しててそれだけでもすごいなあと感心してたんですが、16日の文章の最後の方に「知らない人のことば」とかで世界はできているとか書いてあるのを読んで、ひょっとして最初から、そこに繋げる狙いで文章を構成してるのかなあと読み終えて思いました。半端ない文章構成力です。子供っぽい感想ですみません。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ありがとうございます。
読んでくださるだけでもうれしく思っています。

過去に書いたことはほとんど忘れちゃうんです(笑)。1日前でもです。見たもの、聞いたことを一定のおなじような考え方のスタイルで取り扱ってしまうため、行き着く先がつながる(ように見える)のだと思います。たぶんね。とっちらかっているようで案外まとまっているのかな……。

書きながらよく、既視感にとらわれます。「おなじようなこと書いてるなー」と。自分の狭い認識のフレームから、少しずつでもはみ出してはみ出して、できる限りの移動をつづけたいと思っているのに。あるいは、もっと狭く、限りなくミクロに狭く狭くなりたいと思っているのに。

構成は意識していません。基本は即興。あとでなおすことはありますね。読んだ感じ、腰を据えた安定感と、不安定なドキドキ感、両面があれば理想です。