スキップしてメイン コンテンツに移動

日記679



3月17日(日)


あいさつをするときは帽子を脱ぐべきだったか。などと、どうでもいい反省をしながら新宿を歩いていた。そんなフォーマルな雰囲気ではなかったけれど、性分で細かなことを気にする。儀礼を無意識にこなせるようになりたい。

即時的には見えていなかった意識の部分が、あとになってじわじわと頭の中を侵食してくる。いつもの感覚。ファストな振る舞いは、スローな思考を裏切る。そして事後にスローがファストへの逆襲を仕掛ける。みたいな構図かと思う。いたちごっこのひとりプロレス。

すべての「こうすればよかった」は、ほうっておくと癌細胞のように記憶の中で増殖する。やがては過去の出来事を蝕み塗り替えてしまう。そうならぬよう、「反省」として未来への移植手術を行う。「こうすればよかった」ではなく「こんどはこうしよう」と。「学ぶ」とはそのようなことかと思う。過去の願望を未来へ移植すること。

帽子云々をそこまで気にしているわけではない。自分にそれほど社会的な真面目さはなかった。正確には「反省」というほどでもないことをただ薄ぼんやり感じながら歩いていた。3月の寒い夜だった。紀伊國屋書店まで向かう途中の道に、付け爪が落ちていた。

新宿の路地は、『グラップラー刃牙』の地下闘技場を彷彿とさせるものがある。闘技場のフィールドには砂が敷き詰められており、その砂はどこを掬っても闘士たちの剥がれた爪や抜け落ちた歯などが混ざっている。

同様に新宿の一角の脇を覗けば、そこにはなんらかの闘いの痕跡が見える。多くのヘパリーゼが落ちている。ちなみに刃牙は、その歴戦の残骸を手にして「もうこんなに闘いたい」と微笑むのだった。それを読んだ数年前のわたしは「もうそんなに……」と絶句していたのだった。ブックオフで。伊達じゃなく『グラップラー刃牙』の世界に入り込めてしまうタイプ。




石倉優さん、関根大樹さんの個展「初期微動/Intruder」を観る。@新宿Place M。写真の展示。最終日、終了時刻30分前ごろにすべりこみ。おふたり在廊されていた。わたしが明後日の方向からやって来たIntruderである感も多分にあったかもしれない。なにしろ優さんは、自分にとって一方的な思い入れのある人物だった。

ヒトは産み落とされてしばらくはたぶん、なすすべなく受け身だけをとる。赤ん坊がいっとう最初におぼえる感覚は「不快」であるらしい。これを知ったとき、「不快」への受け身のとり方から、人間の認識世界の拡がりが起こるのではないかと勝手な思いつきの解釈をした。

なにか教わったりみずから学んだり、あるいは押し付けられたり、禁止されたり、お仕着せのものに抵抗したりする中で身体と意識のレセプターがかたちづくられる。その受け口が〈わたし〉の基礎となる。

いっとう最初になすすべもなくとる、無手勝流の受け身。そこで負った生傷から派生する感受体の形式。生きるためのたくさんの傷と受け身の試行によって出来た感受体のかたちはそれぞれ千差万別だろう。でも、もしかしたら、自分と似通っているのかもしれないと感じるものが世界にはいくつかある。きっと、誰にも。

それは小説や詩であったり、誰のものかもわからないネット上の書き込みであったり、写真であったり、哲学書や漫画や映画や音楽や絵画であったりもする。生者のものであれ死者のものであれ、どっかになにかある。わたしにとっての、そんなひとつが石倉優さんの文章だった。

一時期は片っ端から読んでいた。変遷はあれど一貫して優さんのお書きになるものはキュレートもエディットもしようがない一方通行路の片隅から立ち昇るように思えた。致し方のない生の在りよう。それが自分のリアリティともよく符合した。なぜだかはわからない。もちろんすべてではない。部分的に。しかし圧倒的なリアルさを伴って疾走するものを画面越し紙面越しに見ていた。10年以上前から。

なぜか「ここにはなにかある」と思ってしまう。自分の中では「文章の人」という認識で、写真は知らなかった。初めてお写真を拝見したとき、写真にまで「なにかある」と思ってしまった。自分の撮るものとも僭越ながら似ている……。「好きだから」といって寄せているわけではない。

いや、思考に関しては微妙に感染している自覚がある。でも写真は、それと知らないうちからなぜか。そうかんたんに真似できるものでもないと思う。むろん手前勝手な思い込みもあろう。この際、手前勝手を重ねて書くならば、意志に依らない自然的なところでどこか「出会っている」と感じてしまうのだった。あくまで、みずからの一方通行路における幻視として。





ギャラリー内で、抹茶のチョコボールを勧められた。初めて食べる。深い緑色の大きな粒だった。ふだんお菓子を買うことはない。菓子類は3月に入って食べていなかった。サクッといただく。抹茶の香りと甘さがうまくマッチしていた。チョコボールならまちがいはない。チョコボールの感想の前に展示の感想を書くべきだと、いま思った。

ヒトとヒトの繋がりは同一性から始まり、相違によって深まるのだと友人から聞いたことがある。ほんとうは親類であれ親友であれ恋人であれ自分とは似ても似つかない。その似つかない、「関係ない」深淵を少しでも覗き込んだとたん、壊れてしまう繋がりもあるのだろう。


僅かな振動を身体が捉え、身を凍らせた数瞬後、激しい縦揺れに襲われることもあるし、何も起こらないこともある。
それが初期微動であったのかどうかは息を詰めて待たなければわからないし、本震が来た時、わたしたちはその激しい揺れをもって、過ぎ去った予兆を遡及的に塗りつぶしてしまう。
起こらなかった地震の初期微動を、呼吸を止めて探しに行かなければならない。


「初期微動」のIntroductionより。

世界とわたしとの関係は、逆に相違から始まるのではないかと思う。なんのとっかかりもなく、いきなりぽーんと追い落とされる。日ごと深みに落ちつづける、その契機の持続が世界とわたしとの関係であり、生きている時間なのかもしれない。

この場所は自分と似たところなんてひとつもなく、捉えがたい。ただ遠い遠い震源からつたわる、長すぎる初期微動継続時間のあわいで右往左往している。長すぎる心臓の律動と、長すぎるまばたきの瞬間から開かれた「見る」という契機を頼りに。長すぎる何時間かもわからない時間のうえで、微震たちが漂泊する。


ふいに、広場のアカシアが花開いた。そのあと、起こらなかったけれども起こりえた物の哀しい匂いで、あらゆる街路を満たした。


昨年末に刊行された東欧の想像力シリーズ15冊目、デボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』加藤有子訳(松籟社)を、展示を観たあと新宿紀伊國屋書店で購入した。帯にあったブルーノ・シュルツのことばに惹かれて。“デボラ・フォーゲルの散文は永遠に準備中で、不動で、機械化された世界の相当物なのだ”という。

“世界の悲劇的な単調さ”。この本に収録されているシュルツの書評には、そんなことばもあった。“ただ、予兆だけがある。”という、優さんのことばとも呼応するように思えてならなかった。


立法以前の法則に従ってぐるぐる回る人間=原子の世界において、個人の運命のための場所はなく、あるのはただ典型的な運命だけ、何世紀も前からあらかじめ定められた動きと、循環し、反復する局面だけである。p.179


なんのクッションも挟まず大味に接続してしまえば、このような時間の突端に浮かぶ局面を写そうとしたものが「初期微動」の試みなのだとも言ってよいのではないか。シュルツの書評を借りてラクをする。というか、自分はひどく感覚的な人間なので論理が展開できない。そして他人のことばをよく借りる。論理ではなく、直感で通じるものがあると思った。

最低でも、借りものの選定をするための嗅覚くらいはあると思いたい。たまたま手にした本だった。まだちゃんと読んではいないが、デボラ・フォーゲルという20世紀前半に生きた女性作家もあるいは、自分にとって「出会っている」ひとりになりうるのかもしれない。

この世界には、茫漠たるものがある。どこにも束ねられていない見知らぬ記憶の断片のようなもの。うまく束ねられたものは、歴史として語り出される。ビット数を費やし、多くの人が自分の時間を数え、束ねることにあくせくしているように思う。

他方で、歴史になりえない茫漠たる記憶は依然えんえんとしつこい沈黙となって漂いつづけている。石倉優さんは写真という矩形の契機を持って、その束ねられない記憶の局面を抉出しようとしているのだと思う。過ぎ去っても、過ぎ去っても。





写真はあたりまえだけれど止まっている。ふしぎなものだと思う。写ったそれは過去から選ばれた光の粒だった。「この情報をどうすればいい?」。わたしにとって写真は、つねにそんな問いとともにある。

わかりやすそうな記念写真も、現在地から下す安易な位置づけからは外れたところで笑っている。あなたはどこを向いているのか。「Intruder」では優さんが宙に舞って、静止していた。闖入者のように異質なふるまいの写真。しかし、どうしてもスクール水着でニーハイソックスのおじさんが印象に残ってしまった。この情報をどうすればいい。とりあえず、持って帰るしかない。

「手が冷たい」と、むかしから言われる。自分でもそう思う。血の通わない別の生きものがぶら下がっているような。寄生獣みたいなの。ただの冷え性だけれど。そんな冷えた手で、優さんと握手をしてPlace Mをあとにした。ちらっと写真家の瀬戸正人さんのお姿も見えた。

紀伊國屋書店から駅までのあいだ、男女がくっついて前を歩いていた。女性が男性のシャツの裾を、きつめのグーで握るスタイル。背中側の裾。たまに強くひっぱるもんだから、男性は後ろにのけぞっていた。楽しそうに。カクンカクン。まるでおもちゃのよう。いいプレイしてますね、と思った。

新宿駅の改札、前で通過した若い女性のsuicaの残金は714円だった。「ないしょ」と読んでおぼえた。おぼえる必要なんてまるでないのに。なんで3月20日の現在までおぼえているんだろう。3日もおぼえておくつもりはなかった。抜き打ちテストをされても余裕で答えられる。日頃から、不可思議に感じるものごとは多い。



コメント