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日記680





その、余りにも生きているものを少しずつ殺す。一日一日。「生きている」とはそのようなことかと思う。時間の過ごし方、生活の仕方とはつまり、自分の殺し方でもある。他人の殺し方でも。少しずつ。いかに殺すか。いかに選び、そして捨てるか。

細かいことにこだわるのもいいけれど、たまには枝葉末節を振り切る勇気が、わたしには必要だと思う。前にも書いたかもしれない。いくらでも言い聞かせる。「ひとつずつ」を意識したい。一人一殺。血盟団かよ。

選び方は捨て方でもある。殺し方は残し方でもある。余りにも生きている。それを少しずつ残している。日記は「余りにも」が吹きこぼれた余りの部分。あるいはみずから掬い出し残すことにした、余り。

そこまで大袈裟なことばづかいはしなくていいとも思う。適当にぼんやりできるうちは、いいのかな、のほほんとして。チコちゃん(木村祐一)に叱られそう。ぼーっと生きてんじゃねーよ。祖母がたまに見ているテレビ番組です。そんな番組をぼーっと見て、ぼーっと晩年の宙に浮いた日々に棲む人と暮らしている。

知らない人の「余り」を読む。読んでいると、そこに生きている感じの立ち上がる瞬間がある。まるで脈が通うように。ネット上には、いくつもそうしたものがある。誰かの雑記。「どうでもいい」と言えばそう。報告価値はないのかもしれない。それらが伝えている情報は同じたったひとつ。でも内容はかぶらない。

もう更新されなくなった場所でも、たまに読み返す。わざわざarchive.orgから手繰ることもある。墓を掘り起こしているみたいだ。わたしが読まないと、あなたが世界からいないことにされてしまうような気がして。そんなことはありえないのだけれど。




3月23日(土)


風の冷たい日。東京都庭園美術館で岡上淑子の展示を観た。「沈黙の奇蹟」。忘れかけていたTOKYO ART BEATというアプリのクーポン券を使い、割引してもらう。成り行きで中国出身の留学生の女性とご一緒した。

ひとりで目黒駅に向かう途中、大井町線の運転手さんがホームで電車を見つめるこどもに手を振っていた。3~4歳くらいの男の子は、指差喚呼のものまねをしながら出発を見送っていた。

わたしもその背後でこっそり真似をした。とうぜんながらこちらには手を振ってくれなかった。そう、気づかないふりをしてもらったほうがありがたい。この心理的な機微がすなわち、こどもとおとなの差だろう。こどものまなざしには応答する。おっさんのまなざしには見て見ぬふりをする。両方ともに、儀礼として。

東急目黒線車内、目の前で座る中学生くらいの女の子が読んでいた本は『こぐまのケーキ屋さん』(小学館)。作者のカメントツさんは以前、宇多丸さんのラジオでお声を拝聴したことがある。twitterで人気の漫画だそうだけれど、読んだことはない。

目黒駅を出ると、雨が降ったりやんだりして寒かった。待ち合わせてから向かう。道の途中では桜がちらほら咲いていた。「日本で桜を見るのは初めて」という。「いちばん最初の桜はどこで見た?」と聞くと、「ワシントン」とのことだった。

展示を観る。岡上淑子は、1928年生まれのコラージュ作家、写真家。現在91歳でご存命らしい。作品でよく人の首をすげ替える。観ていると自分もつくりたくなった。こどもっぽい感想。人の首をすげ替えたい。でもセンスが問われそう。他人の首をダサくすげ替えてはいけない。

なんとなく、作品のタイトルを予想しながら眺め始めた。表象から意図を想像する。なるほど、と腑に落ちるタイトルが多かった。そして自分のタイトルセンスのなさに絶望した。というか、すぐ大喜利になってしまう。大喜利脳の恐怖。

志向する像には統一感があり、安定した一個の世界観を生み出していたように思う。よくわかんないのも含めて。詩的だと思った。コラージュ作品と比較するとやけに素朴なスケッチは可愛らしかった。


ただ私は、コラージュが其の冷静な解釈の影に、幾分の嘲笑をこめた歌としてではなく、この偶然の拘束のうえに、意志の象を拓くことを願うのです。
——岡上淑子


「トマト」「招待」「ドライブ」「気まぐれ」などといった、なんでもないことばを飛躍させる想像力は、わたしの思う「詩的なもの」そのものだった。ことばで掴みそこねたイメージをコラージュとして平面に再生し、ふたたび一語を付して別の意味を与えるような創造の営み。雑誌の、その誌面が束ねそこねた夢を手繰り寄せるみたいに。

写真も面白かった。りんごに釘を差したり、時計を嵌めたり。Apple Watchを先取りしている、と思った。「りんごと時計」は1955年の作品だった。予言である。すごい。近い未来、釘を打てるタフさが売りのiPhoneハンマーがリリースされるにちがいない。

どうでもいい話だが、つい「このりんごはあとで食べたのだろうか」みたいな庶民的な疑問を浮かべてしまった。スタッフがおいしくいただいたのだろうか。わたしだったら、洗って食べる。少しくらい金属の味がしてもかまわない。鉄分プラスだ。

観終えて考えたのは、「コラージュ」とは“終わらせない意志”ではないかということ。雑誌は雑誌として束ねられ、そこで完成されて読めばもう終わりかのように思ってしまいがちだけれど、まだ先がある。半ば暴力的に切り取って、貼り付けて、いくらでもべつのものを生み出せる。

完成させない意志というか。自分もコラージュ的な意志をもってあらゆることに触れたいと思う。この世に完成品はない。きっとすべてに余地がある。部分的に別々のものを切り取って新たな文脈に嵌め込む、接続可能な余地の隠し扉を探したい。

終わったと思いきや、何かがまだ余っている。おそらく自分にとっては、余すところなく書ききれない日々の残余として「日記」という形態がある。これはたぶん、頁を手繰りつづける意志でもある。




建物から出ると、小雨が降っていた。微妙な雨。傘をさしたりたたんだりしながら歩く。庭園の出口付近に、「ワシントンの桜」が植えてあった。面白い偶然だった。日本からワシントンへ贈られた桜が成長して、ワシントンから日本へとまた贈られた、その桜が植えてある。「正確には、“ワシントン経由の桜”ですね」と説明した。

寒暖差のせいか、花粉のせいもあるのか、疲労感が溜まっていた。翌日になって体調を崩す。日曜日は東大に行こうと思っていたけれど、大事をとって行かなかった。昼から眠って、夜に嘔吐した。おかゆを食べて早めに寝た。3月25日(月)の朝はすっきりと目覚めた。でも病み上がりか。

鼻水が止まらない。
診断は受けていないけれど、花粉症だと思う。
春は体調を崩しやすい。



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