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日記681



郵便の誤配達があった。近くの郵便局まで返しに行った。受付のお姉さんに「申し訳ございません」とあたまを下げられてしまう。ネガティブな雰囲気が嫌で「たまにはこちらからもお届けしないと」なんつって笑っておいた。気の利いたことが言えると、自分も捨てたもんじゃないと思える。

しばらくして配達員のおじさんが訪ねてきた。間違いに気づいたそう。「局まで返却しに行きました」と伝える。困り顔の働くおじさんを見送った。しょんぼりした眉毛だった。いいよ、そんな日もあるよ、と思いながら丸い背中を目で追った。




自分のふるまいをかえりみると、他人に対しては妙に明るいところがある。いっぽうで自分自身に対しては妙に悲観的なところがある。そうやって精神の平衡を保っているのかもしれない。

気が狂っていない限り、人間の精神はたぶん平衡状態へ向かおうとする。恒常性を保つ力学が根底にある。逆にいえば、その平衡が破れると気が狂う。恒常ではいられなくなる。

行きつ戻りつ。自分にとって書くことはまず、そうやって矛盾と向き合うことだ。千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)を読んでいるとき、ふと思った。人は矛盾を回避しようとする。そこで安易な物語化のこじつけが起こるのだという。

おそらく、何年も日記を書き続けていれば自分の思考と行動の矛盾は回避できなくなる。体のいい物語は早晩、破綻する。矛盾を避けようとすればするほど嘘くさくなってしまう。もう、仕方がないから引き受ける。どこかの時点で、かならずそうなる。

わたしは矛盾を避け続けられるほど器用ではなかったせいもある。自己矛盾と向き合うことは認知的な不快感をともなうだろう。この「不快感」が引き受けられなくなったら、書くことをやめてしまうのだと思う。

生きているということはまず不快で、そのために読んだり書いたり歌ったり踊ったり飛んだり跳ねたり笑ったり泣いたりできる。そう思っている。いまのところは。悲観ではなく、現実の解釈として。まず「不快である」という、そこを勘違いしてはいけない。鳥が空を飛べるのは、空気抵抗のおかげでもあるように。




日記は、時の空欄を文字で埋める作業だ。空欄がこわいから。しかし空欄はあくまで空欄だった。この世界にはもともと物語も因果も文法もない。たぶんね。いくら書いたところでなんら埋まってはいない。文字として意味を付した時点でこじつけている。手付かずの真実があるとすれば、それはまったき空欄だろう。

現実は何よりも空欄としてある。そのうえでなるべく、自分を信頼できるかたちにして余白を埋めたい。いたずらに、乱暴に、埋めようとはしない。自分のいない空欄の領分に、重みを預けられる足場を置くように、ちょいとお邪魔をするように、自分を「いる」という状態にしておくために、ことばを使う。

でも預けっぱなしにはできない。どこにも、居続けることはできない。あくまでお邪魔をしている。どこまでいっても仮設の足場で、気がつけばすぐに語りなおす。あすにもまた語りなおすのだろう。いや、数秒後にはもう。『私は生まれなおしている』というスーザン・ソンタグの本があるけど、この「生まれなおしている」は「語りなおしている」とほとんど同じ意味ではないかと思った。読まずに部屋で積まれている本。




空欄から文字へと向かう、見えるものと見えないものとの相互浸透が「書く」という身振りではないか。両者の断片と断片を自分の裡で突き合わせたものが文字となり進んでいく。文章は分断と接続の連続で構成されている。行から行へと断片を秩序化する。「私のもっている精神は統一的であるが、千の断片から成り立っている」とポール・ヴァレリーは書いていた。


異なるものはすべて同一である
同一なるものはすべて異なる
これら二つの命題の間を
汝の精神のなかで往復せよ
さすれば、まず二つは矛盾しないこと
ついで思考は同時に二つのことは考えられず
一方からもう一方へ動くものであること
一方にはその時があり
もう一方にもその時があり
一方を考える者は
もう一方も考える者であることを
理解するだろう


『科学者たちのポール・ヴァレリー』(紀伊國屋書店)にあった詩。ちょっと何を言っているのかわからないが、しかしわかるような気もしないでもない。行きつ戻りつ。その往還の網の目で街の営みはつくられている。誤って配達された、一個の郵便物が街で往復するように、人間の思考も往復している。誤配を正そう正そうと、しょんぼり眉毛でことばが右往左往する。

はじめに「異なるもの」の誤配があった。それを「同一なるもの」へ届けようと、一方から一方へとことばや身体の移動を試みる。どこへかもわからないままに気づいたら動き出していた。誤配されたものをずっと置いておくわけにはいかない。でもいったいどこへ届ければよいものやら皆目わからない。郵便局の人は「あなたのものだ」という。そんなはずないのに。じゃあ誰がこんなものをわたしに届けたのだろう。仕方なく赤いポストに突っ込んで帰る。しかし、出しても出しても戻ってくる。

個人的に感じる、ことばと自分との関係はおおよそこのようなイメージなのだと思う。




あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という一行から始まる田村隆一の詩を思い出した。「帰途」という題だった。あらゆる出来事に対して「ただそれを眺めて立ち去る」ような態度を維持できたら、どんなにラクだろうと思う。できるならそうしたいと望んでいる。だけど届いてしまう。他人の「涙」や「痛苦」。自分に宛てられたものでもないのに。

不随意的に荒川洋治の追悼文も思い出される。


 四年前、ある公開審査の会場だった。二十代の聴衆を前に、審査などそっちのけ(?)で、田村さんは突然立ちあがり、こう語り出したのだ。
 「みなさん。一本の樹木の下には、数万トンの地下水が流れているのです」
 やさしい声だったが、会場は水を打ったように静まり返った。それはその場にいない人のもとにもひびきわたるような、すばらしい話だった。若い人たちははじめて詩人というものを目のあたりにしたはずである。ぼくもまた、そうだったかもしれない。
 見えるものと、見えないものへの同時的な視線。そこに立って、詩人は言葉への愛をつづった。
『文芸時評という感想』(四月社)p.179


突然、立ちあがって一本の樹木と地下水の関係を語りだすおじさんの姿を思い浮かべるとおもしろい。「詩人は主義主張より、声をきかせる存在」みたいな意味の一文が堀江敏幸の本にあったと思う。文字通り、詩う人のおこないなのかもしれない。

勝手ながら自分の書いたことに引きつけると、これは「見えるものと見えないものの相互浸透」のお話だと思う。ひいては「読む」と「書く」ということについての、お話であったのではないかと想像する。あるいは意識と無意識についての話だとも解釈できそうに思う。『科学者たちのポール・ヴァレリー』には、以下のような記述があった。


ヴァレリーがしばしば用いる物理学の用語を使えば、覚醒時の意識がシステムの《固相》であるのに対し、夢はその《液相》に対応している。


樹木は意識の《固相》であり、深層の地下水は夢という《液相》だと安直な当てはめもできる。樹木と地下水は異なるが、その結合関係を勘案すれば一体ともいえる。個体と液体のちがいは、同じ構成要素間の結合関係にある。空欄と文字との結合関係も同様かもしれない。

「ただそれを眺めて立ち去る」ことは空欄の役割で、ことばをおぼえた人間にはもはやむずかしい。ことばがわかってしまうことはもうどうしようもない。人間は逆に、世界の空欄からただ眺められて、ただ空欄に還る存在なのだと感じる。あるいは、夢に見られて。

ただ、眺められながら間違ったお届けものを抱えて右往左往し、あてずっぽうで届けつづけ、やがてなんだかわからんまま世界からお役御免になる。そんな認識は悲観的に過ぎるだろうか。そちらには何か届きましたか。しらんけど。





コメント

anna さんのコメント…
猫がたくさんです。猫を追いかけて画像撮ってたんですかね。
ポール・ヴァレリーの一節は、確かに「ちょっと何言ってるのかわかんない」です。
あ、これ、サンドイッチマンのギャグでしたっけ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
『耳をすませば』が好きなので猫は見かけたら追いかけます。いつかヴァイオリン制作をする青年と出会える日を信じて。カントリーロードを歌いながら。

「ちょっとなに言ってるかわかんない」は、伊達さんが「わかるだろ!」などとつっこむためのボケフレーズですが、引用した詩はその通りぱっと読んだ感じよくわかりません。つっこみいらず。自分で書いた部分も一夜明けると「ちょっと何を言っているのかわからない」です。

それと……細かな蛇足で恐縮ですが「サンドウィッチマン」が正確らしいです。おぎやはぎの矢作さんがラジオであえて「ウィ」を強調しながらお話されているのを聞いて以来、少し気になります(笑)。
anna さんのコメント…
あはは。久しぶりの正確な言葉遣いについての突っ込みです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
嫌がられそうかなーと思いつつも、最大限「嫌味のない言い方」をこころがけておりますゆえご寛恕ください(笑)。いや、annaさんはわざと罠をお仕掛けになっているんですね、たぶん。「ここ食いつくかなー」みたいな。糸を垂らして。パクっといきます。パクっと。