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日記683



何かがそっくり他人へ「伝わる」なんてことはない。これは自分の短い経験上で得た、短い射程の思い込みとしてそう思う。ただ読まれるだけです。こちらもこちらの範囲で「読み」を口にする。それぞれの読みだけが伝播してゆく。読みから読みへと声が派生する。「読み」の快楽の漸進的横滑りとして言語がある。

他人と生の時間を完全に同期させることは物理的にできない。そんなことも思う。どんな関係でもです。「物理的にできない」という事実をまず忘れずにおきたい。モノとモノが完全に同じ位置に同時に存在することは、物理的にできない。同位置に身体を押し込めようとすれば、ぶつかるほかはない。

びっくりするほどあたりまえのことです。しかしびっくりするほど重要な事実でもあります。少なくともわたしにとっては。どうすることもできない事実。切なくて、でも、ちょっぴり安心もできて、勇気もわきそうな事実です。すべての関係は距離を含みます。わたしが存在している時空間の位置を他のものは物理的に占められない。
 
身体が母体内で胚胎した瞬間から、わたしはたったひとつの位置を占めています。誰も同じ位置にはいられない、からだをもっている。端的な事実として、世界はそんなふうにあるらしい。まずはその身体的な物質性を明確に踏まえたい。身も蓋もない事実認識から始める。からだを鍛えるとは自分の位置を鍛えることだと、筋トレしながら思う。




そのうえで人々の読みが通過する。「読み」とは通過のこと。語を解するには、ひとつの語を通過し、べつの語への移動が不可欠になる。立ち止まってしまえば「読み」は成立しない。通過して、通過される。その連続性のまとまりが「関係」と呼ばれて立ち上がるのでしょう。

そして「関係」も物質と似たようなものではないかと思う。耐用年数がある。乱暴にあつかえばそれだけ早く消耗する。もたせるには定期的にメンテナンスが必要で、交換時期がくればあらたな構築を迫られる。

同じ人間同士、変わらぬ関係が永劫つづくなんてことはありえない。長期にわたる関係性も、少しずつマイナーチェンジを施しながらぼちぼちつづいてゆくものです。ぼちぼち変わってゆく。可変的だから持続ができる。朝の自分と夜の自分を較べたってちがうんだ。わたしたちは変わります。

からだが血液の絶えざる通過によって平衡状態を保っているように、関係はことばの通過によって平衡状態へ向かおうとするのかもしれません。日々の食事や運動が個体の維持管理に不可欠であるように、ことばの摂取と運動とが〈わたし〉とその周囲の人間関係の維持管理にも不可欠になる。生きているうちはたぶん。

人間のからだは揺らいでいます。つねに平衡へ向かおうとしているのは、平衡ではないからです。止まらずに、「向かおうとする」ことがすなわち「生きている」という状態なのでしょう。こうしているあいだにも、知らないうちにゆらゆらやってくれている。誰の許可もなく。




〈わたし〉とは、水分だった。祖母の手をとり支えるとき、からだは水分の揺らぎによって維持されているように感じた。先日、おんぶをしながら階段を5段ほどのぼった。ほんの数十秒、ふたりぶんの体重をひとりで支える。思っていた以上の重みを踏みしめた。生きている人間の体重には静止時の重みと同時に、「揺らぎ」による重みもあったのです。考えてみればとうぜんのことか……。

「おばあちゃん、40kgあるよ」と言うから、40kgくらいならジムで持ち上げたことがあるから短時間ならいけると、たかを括っていたのでした。しかし人間ひとりを支える力は直線的な腕力だけではなかった。「揺らぎ」によって立位と歩行とが可能になる。他人を支えるためには、そんな揺らぐからだの揺らぐ重心を捕捉しつづけなければならない。

自分の揺らぎと他人の揺らぎの均衡点を探ること。これは双方向の作業でした。たがいちがいのからだを持ち寄って、たがいちがいに揺れながら平衡へ向かおうとする。一方通行のバーベルとはわけがちがう。たがいちがいの力を与え合いバランスを整える。

なにかを見つめている、その固視中にも眼球はかすかに動いています。固視微動といって、そうしないとものを見ることができないらしい。動きをやめた世界は、白く消失してしまう。動かないものは捕捉できない。

認知能力とはつまり、動きのバリエーションなのだと思います。通過のバリエーションといってもいい。読みのバリエーションといっても。予測のバリエーションともいえる。間断なく動く。判断による停止はしない。するとしてもそれには「しおりを挟む」程度の意味しかない。すべての「読み」は延々とつづくものです。適当にその都度のしおりを挟みつつ、また読み始める。読みつづけること。動くものを。わずかな異同でも、微かな揺らぎでも。

伝えたいことがあるとすれば、それは現在地のしおりです。わたしはいちおう世界をここまで読み進んだのだよ、という。でもそれすらなかなか正確にはいきません。また最初から読み直すこともしばしばある。再読に次ぐ再読に次ぐ再読。K DUB SHINE風に言えば、報復による報復による報復。いつになっても得られない幸福。みたいな感じ。

きっと幸福は、「読み」の運動の中にはない。読めないし、見えない。どっか遠くのほうで身じろぎもせずこっちをせせら笑っている不気味なやつです。静止した真空の彼方にある。動かないものは捉えられません。いずれわたしが動かなくなるときには、そいつが見えるのかもしれない。いまの自分は、動物として発生しているからわからない。こちとら動物じゃ。そして発生じゃ、発生。みんな発生しとる。くやしかったら発生してみやがれ。

とうめんは、〈わたし〉というなまぬるい水分の運動を管理している。それが生きている状態なのでしょう。水分と手をつないで、水分を抱きしめたり、受け止めたりする。なまぬるい水分を湛えながら、なまぬるい水分を飛ばし合って、なまぬるい水分がしゃべっている。水分がなくなったら骨になる。そうだ、骨という硬質な物が〈わたし〉の土台としてあった。死んだ人は白くなる。骨の白さとは、微動だにしない幸福の静止した色味なのではないでしょうか。



コメント

anna さんのコメント…
ううう。。。難しい話しです。
筋トレしながらそんな難解なこと考えられるのもすごいと思います。
確か物理の熱力学の授業で、物理量は対になるものがあって、片方を固定するともう片方はゆらぐとかいう話を聞いたようなおぼろげな記憶があります。圧力を固定すると体積がゆらぐ、温度を固定するとエントロピーがゆらぐだったっけ。意味わからずに書いてますが、そんな話しでしょうか。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そんな、そんな難解ではないはずです!一文で超約すると「タピオカはおいしいけれど、なぜあれほどまでに若者が列をなすのか理解に苦しむ」という内容でした。タピオカの流行は、とてもむずかしい社会現象だと思います。数学的に考えると、この若者たちの列は各点収束か、一様収束かあるいは平均自乗収束なのか……。最終的には物思いが宇宙へ至って「すべての超ケーラー多様体は、カラビ=ヤウ多様体である」みたいな結論に至ります。むろん、いい加減なことを書いています。

わたしは物理を学校できちんと教わったことがありません。たぶんannaさんのほうがむずかしい話をしていると思います!(笑)。でも数学者のヘルマン・ワイルが「物理学は存在そのものを研究する学問で、数学は物の存在形式を研究する学問である」というようにどちらも存在の学であるならば、この世に存在している自分に無関係であることはないのでしょう。