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日記684



「あんたの手、つめたいからやだ」とふられて笑った。自分の手は88歳の老人よりつめたい。病室で、別れ際。TANITAの体重計によると代謝は高いはずなのになーとエレベーターの中でぼんやりしながら、つめたい手をこすっていた。

気が滅入りがちな日々。でも基礎代謝と基礎滅入りは高めに保っているほうなので滅入り幅はそうでもない。基礎から滅入っていれば振れ幅は少なめで済む。ほとんど平静。どんなことがあっても。基本滅入り料を関係各所へ多めに支払っているおかげである。自分の品質保証として。明日の朝、アンゴルモアの大王が地球を滅ぼすのだとわかっても動じない。

「やだ」と首をふられ、差し出した手を止めた。すると向こうから指先だけ触れてきた。弾くように一瞬だけ。「ほら、早く帰んなさい」とでも言わんばかりの手付き。しっしっ、と。来たときは見るからにうれしそうだったのに、帰る段になるとずいぶん機嫌が悪くなる。その心理的な機微はよくわからない。とりあえず「かわいいお婆ちゃん」なんだと思うことにしておく。入院は長くなるらしい。




先週の日曜日。4月7日は横浜で友人とひと息ついていた。後日、メールに「ほんとうはこんな一日でさらりと報われるのだと思う」などと綴った。横浜駅で降りると、決まってサイプレス上野とロベルト吉野の「BayDream ~from 課外授業~」が脳内再生される。「カネなくても遊べるツレ/集めて辛いこと忘れすげえ/楽しいこと企む/真っ昼間いまだ発泡酒かっくらう」。

コンビニでお酒を買って、海上バスに乗り飲むことに。わたしは発泡酒ではなく、かなり奮発して日本酒の菊水をちびちびやる。つもりが、ひと口だけすすってベンチの上に置き放すと、バスの揺れで倒れてあとぜんぶこぼした。蓋があったので油断していた。

見事なまでにさかさまとなり、蓋は用を成さず、急いで拾ったが中身は空だった。水分の流れに手は追いつけない。ちょうどきれいに排水溝へすべて入って、周囲を汚さずに済んだ。からっぽのカップとバカ笑いする。そしてビールを少し分けてもらう。「報われる」とは、このような結果だろうか。




横浜美術館の前。こどもの靴が置いてあった。どうしたのか、ふしぎに思う。肌寒くて暗かった。うちの父は人と顔を合わすたびに仕事のことを笑いながら話す。厳しい内容でも暗い愚痴にはしない。かならず冗談にする。ことしから、まったく経験のない任に就いているそうな。もうトシなのに、ものすごくタフだと思う。何年も前から思っている。ふしぎで仕方がないほど。

横浜公園の少し先で、歩きながら「人生は報われない」と友人に話した。つい口を突いて出たことばだった。家族のことがちらりと念頭にあった。「自分が報われない」という主旨ではなかった。でもほんの弾みで口にしたことだから、みなまで言わずに流した。「他人が報われない」にしても僭越が過ぎる。

わたしは世界の「公正さ」を信じてしまっている。どうにも青臭いところがある。そんな世界、どこにもない。唾棄すべき価値観だ。若さゆえの価値観だとも思う。老いさらばえて死ぬことにさえ希望をもちたいらしい。能天気もいいところ。未来はいつも勝手だった。

というか、もうすでに報われているのだ。なにもかも。生まれただけで、あとは余生だ。ただ感謝をする。その他のことは望むべくもない。菊水は買えただけで飲まなくともよかった。とくに買わなくともよかった。ひっくり返して笑えたのはとんでもないボーナス。ひと口だけすすった、それだけでも得難いこと。

「どっちでもいい」としておきたい。投げやりにではない。あらゆる事態を「みずから選んだ」と言えるように。どうあろうが、てめえで選んだことだ。主体はあとからついてこさせるさ。「あまりにも否定しない人」と指摘されたことがある。そう、わたしが選んだことだから。きっと、ぜんぶ。感謝して受けとる。かといって泣き寝入りもしない。腸はずっと煮えくり返っています。God damn it.




横浜の1週間後、4月14日の日曜日。近場で、いい古本屋さんを見つけた。ほんとうに隠れ家みたいな、わかりづらいけれど個人的に好ましく思う場所だった。小ぢんまり。7畳とおっしゃっていたっけ。奥の奥。急な階段をのぼった先。

吉田健一『私の古生物誌』(ちくま文庫)と、稲垣足穂『男性における道徳』(中央公論社)を買って帰った。あとからマップで場所を再確認すると、何年も前からSNS上でフォローしている方がたまたまお店の口コミを書いていた。面識はないけど、あの人も来ていたのか。

直感的にはなかなかの偶然に感じてしまう。しかし実際はそれほどでもない狭い世界しか見ていないのだろう。その「狭さ」で人の行動は重なり合う。人間関係は視野狭窄の束だ。わたしはわたしの狭窄を生きながら、重ねゆくのみ。


コメント

anna さんのコメント…
2枚目の画像怖い、怖い。
nagata_tetsurou さんの投稿…
なかなか首が捨てられていることなんてありませんから、撮っちゃいました。悪趣味だけど、わりあいお気に入りの写真です。もうたぶんお焚き上げ(焼却処分)されているはずですから、ご安心ください。ばっちり成仏しています。