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日記685



数週間前、お引越しをするご近所さんから体重計をもらった。それから欠かさず自分の重みを計っている。だいたい58kgの周辺で推移。いまが理想的な重みであると思う。たどりついた感がある。筋肉はほどほどでいいから、あとは身体の緊張をほどきたい。かたい。なめらかにいかない。なにひとつ。淀んだ四月の中にいる。


 何かが動き出してしまった、ということを痛いほど感じさせられる瞬間なんて、人生にそんなにたくさんはないだろう。いや、たくさんあっちゃたまらないといった方がいい。でも、そういう瞬間はやっぱり襲いかかってくるし、それがひとつもなくなったら、たぶん人間は死んでいる。
 望むと望まざるとにかかわらず、そういう激動と変化が潜在的にわれわれをおびやかしている。それで人生というものがいつも不意の驚きに彩られる仕儀となる。


ことばもなめらかに発せない。しかし書き写しだけは異様なほどなめらかにできる。キーボードでも手書きでも気になるところは写す。書写だけが軽快。谷川俊太郎と大岡信の往復書簡『詩と世界の間で』(思潮社)。大岡信による返信の抜き書き。読み始めたばかり。

「たくさんあっちゃたまらない」に苦笑した。そうそう、と。たまらないけれど、来るものは来る。「襲いかかって」というほどのわかりやすい獰猛さはないのかもしれない。静かに淡々と背景の色は移りゆく。二時間経ったら、ひと晩明けたら、かたちが変わるほうがふつうでしょ。変わるだけ変わればいい。いま手元にあるものも、秒刻みでかっさらって。

きょうベビーカーの中の女児と目が合って、すれ違いざま手をふってきたのでふりかえした。となりにいた自分の母に「知り合いがいたの?」と聞かれて、「こどもがいたから」とこたえた。知ろうが知るまいが誰にでも手をふってみたい。こどもみたいに。どうしてそれができないのだろう。なんて無邪気もたいがいにしろと思う。

「あんたもがんばってね」と87歳のおばあさんに声をかけてもらった。祖母の友人からの電話。「おばあちゃん、入院したんです」とおつたえする。祖母の名前を、ちゃん付けで呼ぶ。古い友人らしい。わたしは面識がない。いくつになっても「ちゃん」。父の名前も「ちゃん」で呼び、懐かしげに語る。わたしとは「あんたが赤ちゃんの頃に会ったわね」と。「ちゃん」の鮮度がきれいに保存された関係性の変化のなさは、とてもいとおしく思えた。

がんばってね、それと「気をつけてね」ともおっしゃっていたっけ。「ありがとうございます、気をつけます。お母さんもお気をつけて」と電話なのに頭をぺこぺこ垂れる日本人様式で切り上げた。通話時間、4分半。さあ、気をつけてがんばる。でもいったいなにを?なんて野暮な疑問はふせておく。そこは自分で設定すべき因子だろう。「がんばって」ということばの前にある、広くてやさしい空欄へ現在地をセッティングする。




自分の過度に臆病で内省的なところは弱みであり、強みでもある。ときには殺すべき特質であり、ときには活かすべき特質にもなる。要は「使いよう」なのだろう。いまだに取り扱いかねている。臆病ながら、へんに大胆なところもある。自分のことはいっそ道具のように捉えて扱えたらいい。


谷川 2=自信をもって扱える道具をひとつあげて下さい。
武満 ぼくはねえ……。
谷川 ピアノでもいいんだよ。
武満 いや、とんでもない。(笑)箸、食事の。
谷川 そりゃたいしたもんだね。ぼくは全く自信ないんだよ。
武満 ぼくは今、鉛筆って言おうと思ったんだけど、鉛筆を自信をもって扱えるっていうのは、こりゃちょっとヤバイしさ、(笑)そんなことありえないんだし、やっぱり箸。子供の時から使っているから。

  たしか彼は剣玉が上手だったはずだ。いっしょに空気銃を射ったことがあるが、これもなかなかねらいがよかった。武満にもっとも似つかわしくない道具は、私に言わせればねじまわしである。


『詩と世界の間で』についていたリーフレット「武満徹への33の質問」より。2問目。谷川俊太郎と武満徹がいっしょに空気銃を射っている画の余情にひたる。なんだか記憶に熨斗がつくような御目出度さがある。こどものときから使っているけれど、わたしは箸が苦手だった。

自信をもって扱える道具はなんだろう。眼鏡だろうか。文字通り、肌身離さず身につけて、ちゃんとその通り使えている。助けられているから。使い方が限定的な道具なら扱いやすい。かけて視線の通る位置に置いておけば完了。かんたん。しかもすぐに意識から消える。

ちゃんとした位置に置いておくだけで機能するものがある。「がんばって」も似ている。とりあえず置いておかれることばだと思う。多くは適当に使われる。眼鏡を扱うように、それでみずからの行動を矯めなおすことができれば理想的です。

ぽーんと適当に置いてもらったものを、自分のひん曲がった部分へあてがっておく。気をつけるように。その屈託は他人のあずかり知らないところにある。適当に置かれるのは無理もない。置いてもらった激励を、装着するのは自分だ。むろんしなくともいい。

「がんばって」に限らず、人から受けとることばは置物だと思う。置いてもらえる。入院中の祖母の面会に行くと、ベッドサイドのものが増えている。飲み物、果物、雑誌など。誰かが見舞いに訪れるたびに増える。あれをイメージする。同じ病室の人からもらい受けるものもある。本人が必要とするものも、必要としないものもある。祖母と話しながら、いるものといらないものを選り分けて持ち帰る。

ことばはただ置かれる。どう扱うかは自分か、あるいは自分の属す共同体の判断に依る。その時々のタイミングにも依る。番号が割り振られた日記群も単に置いてあるだけ。なにがしたいわけでもない。しているとしたら、お見舞いです。元気だせよ。




少年を肩車しながら歩く父親らしきおじさんとすれ違う。少年は高いところからわたしを見下していた。そしてわたしは少年を見上げていた。1秒あるかないかの視線の交錯。ふたりとも真顔だった。

帰宅したらパパをいたわってやってほしいと願う。おじさんという生きものは元気がないはずだから。逆にいえば、元気なやつはおじさんではない。おじさん失格。別種の、元気な生きものです。もしくはアントニオ猪木です。

4月18日木曜日の午後10時過ぎごろ、スーツ姿の男性がひとり富士そばでモヤモヤさまぁ~ずを見ていた。スマホの画面にうつるさまぁ~ずをウィンドウ越しに外から垣間見た。あの人は確実におじさんだった。テレビ東京で日曜日の夕方からやっている番組だ。日曜日の気分を少しでも先取りしようとする疲れたおじさんなのだろう。たぶん。おじさん、合格。

4月19日金曜日の黄昏時、からだにコロコロをかけながら歩くおじさんがいた。毛やホコリなどのゴミをとるあれ。あたらしい「ながら歩き」のスタイルを見た。胸を重点的にコロコロしていた。胸毛が気になるのか。よくわからない。黄昏は逢魔の時間だ。魔が差したのか。彼もお疲れなのだと思う。立派なおじさんである。胸毛からの連想で、フレディとあだ名をつけた。




コメント

anna さんのコメント…
へー、谷川俊太郎と武満徹って仲良かったんだ。初めて知りました。
昔、武満徹のフルートの曲を練習してた。懐かしいです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ふたりは若い時分から知己朋友みたいです。詩人と現代音楽家。武満徹の文章もときに詩的ですね。『音、沈黙と測りあえるほどに』なんて本の名前から詩心が迸っています。わたしは本ばかりで、武満徹の音楽はほとんど聴いたことがありません。Spotifyで少しずつ聴くものの幅を広げています。