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日記686



4月30日(火)は終日、雨。
春の長雨。まだ肌寒さを引きずる。

29日(月)、地面が濡れる前。落ちた木香薔薇を拾う。路上でうずくまり、むやみに拾う。よく見るときれいだったから。目的はない。写真を撮ってすぐに捨てた。写真も拾ってからの思いつきに過ぎない。拾おうと思った特段の理由はない。赤いタカラダニがたかっていた。タカラダニは、つぶすと赤い染みになる。赤に手足が生えた虫。ヒトもたぶんつぶすと赤い染みになる。そこへ白い骨が顔を出す。白の土台に赤を絡みつかせて生きている。

立ったまま見下ろすと屑が散らばっているようでも、低く目線を変えればちいさな萎れた薔薇がある。つぼみもある。でも誰かと歩いていたら、きっと素通りする。「なんで拾うの?」と問われてもこまるから。「なんかきれいだから」ではいけない気がする。あまりに幼い理由で恥ずかしくなる。ひとりなら拾える。誰からも理由を問われずに済む。

わたしは自分の行動をうまく説明できない。始まりはぜんぶ「なんとなく」だった。感覚的。しかしそれでは話にならないから人前となればてきとうなこじつけを語る。頭の中には納得されそうな「こじつけ」のストックが山とある。こうきたらこう。ああきたらああ。山といえば川。つーといえば、かー。

5月1日(水)も雨だった。5月2日(木)も雨。
薔薇は長雨の流れに従って落ちた。




4月27日(土)、渋谷LOFT HEAVENで音楽ライブを観た。終了後、飲みながら「きょうのライブに来たのは、なんとなくです」と主催のバンド、もらすとしずむの田畑“10”猛さんにお話した。悪い意味でも良い意味でもなく。根本的に意識が接触不良を起こしているのだと思う。変な解脱感というか、デタッチメントというか、半睡常態。そんな話がしたかった。

みずからの意志とはべつの、誘導的な時間の流れがある。単に向かうべき場所へ向かうよう自分の時間が誘導された、それに従った。宛名のない手紙を受けた。自分宛ではなくともかまわないような手紙を。動機の供述としてはこれがしっくりくる。むろん意志もあるが、強い意志に依るものではない。きっかけは偶然に依るところが大きい。微睡みに浮かされて。なにより自分の気持ちなんてチンケなものを絶対化したくない。

出演は三組。
ユアミトス、Coffy and Mary Ann、もらすとしずむ。
もらすとしずむ以外の二組は初めて観ます。




胸に手を添えて歌うボーカルHarunaさんのしぐさが印象的なユアミトス。こんかいのステージは4人の編成、たぶん。時間が経ってしまうとすぐ記憶があいまいに……。写真では隠れてしまいましたが右にギターのKazunoriさんがいます。サイトを確認するとメイクアップやアートワークの方も含めてメンバーは9人かな。楽団だそうです。

「大好物は美味しいお酒と夕空」とピアノのMiKuさんのプロフィールにありました。5月2日(木)、雨上がりの夕空がきれいだったことを思い出します。朱が顔に染むような。わたしは湿り気を帯びた夜の街の匂いが好きです。

音のないしぐさも音楽の一部なのだと思います。人のからだが音楽に従属するうごき。たとえばヴァイオリンを弾く前のそっとした構え。音を鳴らす前や鳴らしたあとにある痺れのごとき余韻。歌から歌へ向かう息遣い。演奏が終わって音の中から元へもどる感情の階調が美しいと思う。




二組目のCoffy and Mary AnnはSNSのnote.muを通じて知っていましたが、観るのは初。ライブ開始の前、客席で個人的に軽くごあいさつをする。「どうもはじめまして」なんつった記憶がある。それからうにゃうにゃフェードアウト。のち流れるように近くにいた田畑“10”猛さんに会釈。「きょうおしゃれですね」と言われ「いやーははははは」と笑った記憶。そしてまたうにゃうにゃ立ち去る。ほめことばの受けとり方が一向にわからない。なんでも適当に笑えばいいと思っている。「笑い」は受け入れているようで、突き放す態度でもあるような……。なんてことをあとで思う。




Mary Annさんのピアノソロから始まり。ユアミトスが旋律的要素を担っていたとして比較するとこちらはリズム的要素に親和的だと思う。弾みながら歩くようなイメージ。弾けば弾ける。元気になる。わたしは「元気?」と聞かれても言いよどむことが多い、気難しい奴だけれどCoffy and Mary Annを聴くあいだは元気だと言える自信がつく。元気である根拠をいただける。元気の後ろ盾。

ボーカルのCoffyさんはとにかくステージ映えします。あとで写真を取捨選択しながら「どこをどう撮っても映えるなー」と感じました。歌う姿はもちろん、立ち姿から少しおどける姿まで全力で映える。ステージの上で魂が生きる人。

Mary Annさんのピアノは一音一音が新鮮に響く。きっと練習で何度も繰り返し磨かれた新しさのかたちであり、積み重なった時間の最先端をビビッドに鳴らす。そんなおふたりのスタイルが融和し、解放されると最高に楽しいパフォーマンスができあがる。「最高」とか「楽しい」とかシンプルで鮮明なことばを素直に使いたい。おふたりとも、たぶん、はっきりした性格なのだと思う(勝手な推測)。




さいごに、もらすとしずむのドラマー吉村ロデムさんも混ざる。Coffyさんの「素敵!」という囃し立てに笑ってしまう。それをちょっと受けきれないロデムさんのようすに共感しつつ。




トリは、もらすとしずむ。メンバーがみんな、ちがうほうを向いている写真は象徴的な気がします。たまたまだけど。お客さんも含め、まったく異なる個人個人が同じ音楽でぶち抜かれる。ずーんと重厚な音圧に支配されてそれ以外の感覚はキャンセルとなる。音以外はキャンセルでいい。それだけのために人が集まったのだから。

演奏の前に「きょうは出しちゃいますね」とひとことあった。先の二組と毛色がちがうことによって、これからやる音の加虐性に意識が向いていたと思う。たぶん芸術には加虐的な側面もある。加虐的でないといけないとも思う。わたしはドエムなのでそういうものを好んでいる。いい塩梅にぶたれるとよろこぶ。




「生きている状態は基本的に閉じていて、死はひらいた状態なんです」。

どういう脈絡かはすっかり忘れてしまったけれど、ライブ後に田畑“10”猛さんとそんな話をした。わたしのよくわかんない妙な思いつきを「おもしろい」と聞いていただけてこちらも感銘する。

からだはふだん、緊張を宿して閉じている。たとえば、うんこが知らず知らず漏れることは(ほとんど)ないし、目玉が飛び出すこともない。血液が溢れ出して止まらなくなることもない。皮膚が傷つき血が漏れ出ても、からだはすぐ傷を閉じるように働く。生は閉じる向きへの力。身体的にも意識の上でも、わたしたちには閉じた輪郭のかたちがある。

しかし老いて死に近い人のからだはだんだんとひらいてくる。お年寄りが風呂場で脱糞してしまうことはめずらしくない。穴の制御が効かなくなり、意識までひらいて散逸する。ふと無意識に声が漏れる。日一日の時間が束ねられない。ことばが積み上がらない。繰り返す。その都度ひらいて、散らばりゆく。そういう意味では乳幼児も死に近い存在です。

そして表現とは、ひらく側にある。少し死ぬことだと思う。歌は穴を解放する。そこに身を委ねれば、死に近づく心地よさが得られる。排便時の快感と似ている。でもそれに酔ってはいけない。ひらいたら閉じる。意識を醒まし制御する。始まりと終わりの輪郭を描く。からだを一定の時間だけ死に浸しつつ、生きて帰る。それが創作の重要なミッションとなる。

時間はつねに、ひらく向きへと働く。人はいずれ死ぬ。死とともにある時に接近し、時と一体となることで、少しのあいだ時を忘れる。音楽には、そんな機能があるのではないか。うまいこと死んで、うまいこと生きて帰ればそれはちょーかっこいい音楽になるのです。うんこがダダ漏れでは格好がつかない。終わりにはケツをくっと締める。

以上の内容は、微生物の死ぬ動画を見て感じた思いつきでした。動く一個の輪郭がなくなる。生と死は相補的で、わたしたちはいつだって自己の輪郭をひらいたり閉じたりパクパクしている。表現をする人は、ときおり大胆にぐあっとひらきたくなっちゃうんだ。不定形であやふやな自分の輪郭を拡げ、空間を覆うように。





ものごとの輪郭を揺さぶってくれるものが好きです。かたちがなくなって漏れちゃうやつ。死なない程度に。いや、もう死んじゃってもかまわない。なんて思えたらすばらしい。もらすとしずむというバンドのライブはその名の通り、漏れ出ます。轟音なのだけどアタック感よりごりごりゆらゆら揺蕩う構造が印象深い。

お昼から始まったライブでしたが、打ち上げにノコノコついて行ったらこの日の帰宅は24時過ぎました。歩いていると凍える寒さでガタガタ震えた4月下旬の深夜。半生半死、半睡半醒、半信半疑でなんとなく足取りを決めているように思う。適切に処理しきれなかった物心のつかない時間の残滓が、意識へ触れてくる。酔生夢死か、起死回生か。そんな本のタイトルを思い出した。




コメント

anna さんのコメント…
久々の更新ですね。おっ帰り~。
5月1日は私も東京にいました。昼に日本橋の三越の1Fのブランドもの売り場を「値段高っ!」とか言いながら覗いて回ってました。(見てるだけ。買えないし)
「生きている状態は基本的に閉じていて、死はひらいた状態」って文章で、物理の先生の「自然界のエントロピーは増大する。しかし、生命体のエントロピーは減少する方向である。従って、生命はかりそめである。」とかいう言葉を思い出しました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
さぼっているうちに「annaさんから心配のコメントこないな、どうしたんだろ」と逆にannaさんを心配している自分がいました。心理的な相転移です。それで心の系の安定性が保たれます。更新は完全にマイペースになりましたね。不定期。ただいま。

東京旅行でしょうか。わたしは日本橋方面へはあまり行きません。新宿伊勢丹止まりです。さっき、ちょうど物理の話をyoutubeで流しているとannaさんからコメントの通知がきました。時枝正教授の動画です。「京大おもしろトーク番外編」ってやつ。

コメントでも物理の話をされて、なんだか物理ブームがきている気がします。発想はありませんでしたがエントロピーになぞらえると、そういえばそうかーという感じです。余談ながら、時枝教授はとても耳に心地よい発声をします。いい声。講義の動画、おもしろいっす。おすすめ。