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日記688



カテゴリ化すると差異がなくなり微細な識別ができなくなる。識別力を維持するために、無名の荒野がある。下條信輔教授の講演動画を流しながら料理をしていたら、こんな話に手が止まった。

色名の心理空間には、肌の色近辺に広大なブランクがある。「肌色」という曖昧な領域。細かく見るため、あえて曖昧にさせておく。この考え方がすごくおもしろいと思う。人間の三原色色覚系は情動ディスプレイのために最適化している、という話もおもしろい。身体化した知性の話も。ぜんぶおもしろい。





すべての判断は、下した瞬間にそれ以外の「微細さ」をとりこぼす。曖昧な領域を振り切る。置いていく。それでもなお生きるうえで断じることは日々必要になる。名付けないまま自閉的に感じていたいのに、名付けないことには始まらない。もとの文脈とは離れるけれど、そんなことを思った。

しかしいちど振り切った領域へ、ふたたび戻ってもかまわない。別の視点を得てから、以前にはわからなかった「微細さ」とまた出会える。改めてひとつひとつの遠さや近さ、大きさや小ささがわかる。「肌色」という広く曖昧な領域は、そこへ帰るためにあるのだと思う。「曖昧さ」が認識のベースとしての働きをなす。自分の潜伏基地としての曖昧。

わたしは誰になにを言おうが、どんな決定をしようが「曖昧さ」に立ち戻る。他人との会話の場面ではあーだこーだ言うけれど、短時間でことばにした判断に正誤はない。わからない。知らんがな。でもそれでは文字通り「話にならない」から、事を断じたようなフリをして話す。のちに真逆へ舵を切り直すこともしばしばある。イエスからノーへ。ノーからイエスへ。

他人と話をするためには、ひとりきりの「曖昧さ」という潜伏先からいったん這い出なければならない。出る際の擬音は「ザバー」。荒野ではなく、ワニ型の爬虫類が直立二足歩行で沼から這い出すイメージ。そして背中に残った曖昧な泥をビチビチ撒き散らしながらコミュニケーションをとる。こちとら泥水をすすって生きている。やなイメージだなあ。「清濁併せ呑む」と書けばいくらかマシか。いや「濁濁」かもしれない。濁濁、だくだく呑む。そして絶えずおなかを壊す。




角砂糖が捨てられていた。理由はわからない。枯れた木香薔薇が入り混じって、夕陽に照らされ、コンクリートの上で白がやけに黄色く見えた。砂糖、木香薔薇、夕陽、コンクリート。ランダムな材料がたまたまここにあって写真を構成する。撮りたくなるものには、「ランダム性」みたいなテーマがひとつあるかもしれない。自分がなにを撮りたがるのか、撮ってから考えている。

考えるときは「曖昧」の中へ潜る。「わからない」の中へ、とも言い換えられる。なるべく深く。息が続くかぎり。呼吸がまだ浅い。すぐ息切れしてしまう。わかりたいと思う。わかった気になってしまう。なにもわかったためしなんてないのに。

逆に、考えないためには決めてしまう。決めてしまえばらくなことは多くある。わかったことにする。考えないための決めごと。スーパーで買う食材はあらかた決めている。掃除をする曜日、筋トレをする曜日も決めた。他にもいくつか。決めたことはデジタルに見切りをつける。種々の決定は、自分をロボ化させるためにある。面倒な識別に時間を割かない。

ものごとを決めつけずに留めおく、それは「継続したい」という欲望かもしれない。決めてしまいたいと感じるときには、「終わらせたい」と欲望している。生と死にも読み替え可能か。このブログはすぐ生と死の話をしたがる……。でも「生と死」はどんな思考の根底にも横たわっている概念だと思う。このふたつを同時に見据える視力をもちたい。

生きることは、戻ることだ。
戻れないと知りつつ。何度でも繰り返し。
進む力は死が担う。


かつてあったことは、これからもあり、
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。


「すべては虚しい」というコヘレトの言葉に、乾いた親しみをおぼえる。瑞々しさなんてない。熱は干からびるためにある。わたしが身体に宿す体温も、最終的には干からびるために発しているのだと肝に銘じる。

現実には干からびるより、腐敗が進む。生きものは腐敗性物質だ。熱がなければ腐敗しない。生きているうちは腐敗を遅らせるよう、繰り返し水分を摂る。身体を曖昧模糊な沼にする。運命を水で溶く。循環させる。そうやって、すこしずつ腐らせる。

できることならきれいに乾燥させたい。しかしミイラ化には、手間と時間がかかるね。ふつうに腐っちまうのがらくなんだろう。時の経過にあわせて。




5月8日(水)


近所のスーパーで、ちいさな男の子が「ゲゲゲの鬼太郎」を歌っていた。大声で「ゲ!ゲ!ゲゲゲのゲ!」と。「しけんもなんにもない」まで歌ったところで「なんにもない」をリピートし始めた。「なんにもない!なんにもない!なんにもない!」。

エンドレスでもはや「なんにもないの歌」と化していた。そうだね、もうほんとうになんにもないよね。きみのそのアレンジ、最高。と内心で思いながら通り過ぎた。人は「なんにもない」すら歌わなくなったとき、真になんにもなくなるのでしょう。

あの子は才能がほとばしっていたように思う。水木しげる先生のメッセージとも合致している。たぶん。魂を揺さぶるアレンジだった。





コメント

anna さんのコメント…
「沼から這い出す、直立二足歩行のワニ型の爬虫類」って想像すると、なんか可愛い。
nagata_tetsurou さんの投稿…
セルフイメージです。自分を他の生物にたとえると爬虫類だと思います。じっさいの見た目ではなく、挙動とか精神的な部分で(笑)。爬虫類の手足って、赤ちゃんみたいにぷくっとしていてかわいらしいですね。手足のないヘビなんかも目がつぶらでかわいい。ちょっとこわいけど。「ちょっとこわい」も含めてセルフイメージは爬虫類になります。