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日記691



「聞こえる」とは、思い出すことでもある。「聞こえない」には、「思い出せない」という側面もある。耳の機能が弱っているだけではない。音は聞こえている。でも自分の内にある語彙やイメージとの照応に時間がかかる。耳にとどいた物理的な声音からさらに意味が「聞こえる」までにタイムラグがある。しばらく経過して「あっ」とわかる場合も多い。

そして「思い出す」とは、意識を選り分け把持する力のこと。外から受けた刺激を内に把持する力。他人の話を聴取しつづけるには、内面の把持力を維持するための持久力も必要になる。ふたつ合わせて集中力。これは個人的な見立てです。他人の話を聞くことはかんたんではない……。気づけば意識が明後日の方向へ漂っている。

耳の遠い祖母と会話をする。遠くにあることばたちを追いかけるように。あいさつひとつから、その在り処を指し示すように。ことばに内在する、時間の場所まで意識を連れ出す。「ここがいまの時点」と道案内をしているみたいな気分になる。

朝には「おはよう」、夜には「おやすみ」。その時々を丁寧に拾って、現在地を思い出してもらう。油断すると時系列が夢のごとく飛び飛びになってしまう。声をかけ、時間のかけらを手渡す。大きめのはっきりした声で固く握る。昭和一桁からつづく長い時間の中から、いまこのときへ。


 孤独とは、つまり年をとつて周囲に自分と同じ年頃の者が少くなり、話し相手もゐなくなるといつたことだらう。しかしもつと端的にいふと、それは自分自身が内面から痩せて希薄になつてくるのを自覚させられることではないか――。


安岡章太郎「夕陽の海岸」より。
堀江敏幸の『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社)から股引。

他人の記憶の中にも自分がいる。年をとれば他人の記憶に住まう自分が徐々に消える。長い時間をともに連れ添う者がいなくなると、記憶の遠路で迷子になるのだと思う。戦前からつづく、途方もない心覚えの空間にぽつんと置かれて、無理もない。まだそれほど年をとっておらず、戦争中みたいな身の危険をアクチュアルに体験したことのないわたしでさえ、たまに迷子になるのだから。

いまが信じられない。まだ十代みたいな気分もある。行きつ戻りつしつつなんとか「現在」へ意識とからだを把持する。毎朝、顔を叩いて時計とカレンダーを確認する。きょうは2019年6月4日の火曜日なのだと聞く。思い出した。もうこんな時間。そろそろ行かなくちゃ。

あまりに長いあいだここにいる人は、やがて向かう場所も目的も忘れてしまうのかもしれない。それは悪いことではない。きっと、自然なこと。あまりに長いあいだを人は生きている。セネカの『人生の短さについて 他2篇』(光文社古典新訳文庫)を読みながら思う。原典は二千年以上前の人間のことば。あまりに長く、人々はここに居着いている。






身近なお年寄りのことばにも生まれてから経過したすべての時間が詰まっているのだと思う。ただの会話のひとことでも。ながいながい日付のつらなりを通り過ぎて複雑に捩じ曲がったり、ずっと変わらず真直に持ちこたえたりしてきたことばがある。

お年寄りにかぎらず、だれのことばにも背景がある。存在する月日が短くとも長くとも固有の過去がある。できるなら、その人の語らないところに意識を向けたい。詮索するわけではない。自分の前には現れない時間が膨大にあるという前提だけを保持する。語られたことばは、存在することの暗黒をわずかに照らす糸口に過ぎない。


 一つ一つの言葉が明かすのは、なにもその意味だけじゃないんです。その言葉によって、一人のわたしがじぶんの感受性をどんなふうにつかったかということをも、同時に明かす。一々の言葉のふるまいようには、一人のわたしの感受性のふるまいようがそのままにあらわれる。どういう言葉をどんなふうに身にもっているのか。そのことが一人のわたしがどんな感受性の骨格をもった人間かを物語ってしまうので、「愛」について、あるいは「知性」について語れば、それで「愛」や「知性」について語ったことになるんじゃないんです。「愛」について、「知性」について、どのように語るか。どのように語ることができるか、あるいはできないか。その語りかた自体が、その人にとっての「愛」なり「知性」なりを語ってしまう。言葉でならどうとだっていえるんだというふうにかんがえることもできるかもしれない。しかし、どんなに立派な言葉もただそれだけでしかないならばゴリッパな言葉でしかなくて、どんな言葉であっても、やっぱり言外の意味を避けとおすことはできないんです。言葉は意味するものによって言葉であるだけでなくて、意味しないものによってもまた、言葉なのです。


ことばはふるまいでもありしぐさでもあると、詩人の長田弘さんが本を通して教えてくれた。語り得ぬことによってもまた、ことばなのだろう。引用は『一人称で語る権利』(平凡社ライブラリー)p.196より。

日常にあってもそのしぐさのいちいちに、それぞれの生きた痕跡が充填されている。おおげさかもしれないけれど、ひとつのものの見方としてそう思う。少なくとも自分のふるまいは「生きた痕跡」としてある。人を見るときもそう。

充填される「生きた痕跡」とは、綿々と過去から紡がれてきた他者の「生きた痕跡」をとりこみ、自分なりに再起させたひとつのまとまり。自分だけのまったきオリジナリティなんてもんはない。生きているということはわたしをここへ連れてきた死者たちの声に耳を傾け、息をふきこむことなのだと信じている。みずからもまた死すべきものとして。

いずれみんな死ぬ。わたしの現在は遠い過去からつづく歴史の途上で偶然ふってわいた不思議な時間だ。いなくなることがあたりまえで、「いる」が非常なのだと思う。だから「いる」に多くの感情がこもる。「いない」がふつうなら、それをかなしむことはしない。

いつか書いた私信を転載したい。 


「みんなあたりまえに死ぬんだなー」と思うと逆説的にもみんないとおしくなる。いと惜しい。それから愛おしい。この順番。戻らない時が口惜しいし、かなしいから好きだと思う。すごくかなしいから、手を離したくないと思う。離れてからかなしむのではなくて。ぜんぶが消えてなくなるから、笑いたいと思う。不在であることがあたりまえだから、それ自体に感情を乗せる余地はない。存在だけがかなしい。

みたいな、こっ恥ずかしいエモさが自分の根底にはあります。そういう人なんですよ(笑)。死は自然の常態で、生きていることこそがかなしい。倒錯的かもしれないけれど、自分ではこれがリアルだと感じる。

“さくらふぶきの下を
ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と”

茨木のり子の「さくら」という詩です。いまこちらは八重桜も散りはじめたころ。ひと息ついて、早めに眠ります。たまに、一瞬だけわかるときがあります。いつもはわかんないけど、一瞬だけ。


こうした感受性は、もともと日本語にふくまれている気配もある。「そういう人」なだけでなく、日本語が過去から汲んできたかなしみの影が乗り移っていそうな気配。自分の感情には、日本語という言語自体の内奥に滲む情緒も混在しているのではないか。

日本の文学には因果関係のはっきりしない“Sorrow”が多くて困る、という話が『詩と世界の間で――往復書簡』(思潮社)に出てくる。本が手元になくてうろおぼえだけれど、大岡信が海外の翻訳者から聞いた話だったと思う。はっきりと言語化されない感情のしぐさが言語自体に沁みついているのかもしれない。それをしつこく言語化する態度が必要だと大岡信は述べていた。




なにを書こうと思っていたのか。最初の動機がわからなくなってしまった。すぐ迷子になる。とりあえず、すべては死すべきものとしてある。この認識がわたしの感受性の核にあるみたいです。ここからしか始まらないし、ここで終わるのだとも思う。死すべき身体に触れている。死すべき声を聞いている。まず自分が死すべきものとして生きている。信ずべき実感はそこからわきおこる。

「生きる」しかない思考では世界を覗き見るための内なるレンズが透明度を失ってしまう。条理から奔逸する死への想いが自分の内側にしなやかな透過光として兆すとき、まなざしの曇りは払われる。わたしたちはいないことがあたりまえだった。死が軽やかに触れる光のなかでは意味が固まることはなく、指をすり抜けてふわふわとたゆたう。

把持力もクソもなく時が意識をすり抜ける。そんなとき人は音楽を聴いている。集中なんかしない。死が、すべてと唯一を同じくはかりあう。音が沈黙とはかりあえるほどに耳へと、射し込む。なんら思い出すことはなく、いつかなくしたことばにわたしは見送られる。なくしたまま。きょうもあたりが暗くなった。ねむい。生きている時間の凶器みたいな固さを、夢が液状にほどいてゆく。時をたずね、たばね。光を振り返らせるために。





祖母はぶじ退院しました。
ちゃんちゃん。



コメント

anna さんのコメント…
最初は言葉の話だと思ったんですが、後の方では以前教えてもらった「メメントモリ」の話を思い出しました。
おばあちゃん退院したんですね。よかったです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
こうして日記(のようなもの)を書いていると、初対面の方から「おばあちゃん元気?」なんて聞かれることがあります。祖母もわたしもあずかり知らぬところで、お気遣いをたくさんいただいているのだと思います。ありがたいことです。

わたし個人の感覚では死を想うことが世界への謝意につながります。「なきもの」を想う。「死」からこの世を見渡せば、人はみんなちいさくてかわいい。じたばた生きているね。これはどこから目線でしょうか。すでに自分は死んじゃった人間であるような、宙ぶらりんの目線です。

死んじゃったんだと思う。半分くらい。