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日記693



こまめにブログを更新しなくなると、とりこぼす事柄が増えます。メモの断片だけがかさんでしまう。雑な走り書きの日々。時間が過ぎてメモを読み返してもピンとこなかったり、もうそれについて思いを巡らせる熱量がなかったり。ただ霧散した時間なのだなと思う。

通り過ぎてしまうことは惜しい。しかし立ち止まる暇もない。過ぎていくものは、忘れてもよいのだと思う。というか書こうが書くまいが、いずれにせよ忘れる。きっと忘却へ向かうためのルートがちがうだけで、「忘れゆく」という点はおなじ。そう信じている。過去はすみやかに処理しておかないと置いてけぼりを食います。

立ち止まっていたらすぐ、置いてけぼりになる。書くことは置いていかれたものを拾いなおす作業だと思う。読むことも同じく。読書とは置き去りの時間との通謀だった。人の離れた時を掘り起こす。流れない時間を流れる時間へとうつしかえて、ふたたび流れないように刻みつけ、うっちゃらかす。そんなイメージで「読む」と「書く」の循環をとらえています。




山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』(PHP新書)を図書館で借りました。2001年に刊行された本ですが、「編集者が選んだ名著」として再刊されて新着の棚にあり、なんとなく。

タイトルの通り「伝わる」文章のための指南書です。ズーニーさんは「機能美」ということばで表現している。状況に合わせ、意味内容のはっきりとした機能的な文章を書くうえでは参考になると思います。

冒頭、ある女子高生の書いた文章が引き合いにだされます。「切実なこと」がテーマで300字ほどの。そこから本書の志向する「文章」がどういう性格のものなのか、大掴みな輪郭も見えてきます。まさしく「伝わる」を体現した構成。そしてわたしの個人的な引っかかりも同時に冒頭の一例へ集約されていました。


 私が切実に受け止めることと言ったら、自分の将来についてです。ひとまず私にとって今気がかりなのは、近い将来です。人生には、とりあえず、今思いうかべるだけでも、大学進学、入社、結婚、老後など一大イベントがありますが、今は、とりあえず、大学進学のことが切実に感じられます。人生だって、1つひとつ、目の前にあることから順に片付けていくべきだと思うからです。
 学歴がすべてではないと思うけれど、とりあえず、一流の企業にでも入りたいならば、やはり高学歴を目指すことがてっとり早いと思われます。今は、とりあえず、自分の目の前にある問題から解消していこうと思います。

 
これは山田ズーニーさんのアドバイスが入る以前の文章。いわばビフォーです。ぼんやりしています。「てっとり早」く「とりあえず」字数を埋めた感じがありありと伝わる。めんどくささが端々から漂います。

むろん、なおすべき例として挙げられたものです。それでもわたしは好感をもちました。本書にもある通り「素直ないい子」なのだと思えて。要領を得た取り繕い方ができない不器用さもうかがわせる。好きか嫌いかでいえば好きです。

つまり、これだって「伝わる」ものがあるのです。どんな内容でも受け手に何かが伝わってしまう。それがことばです。ただ状況に沿う機能的な伝達ではない。身をかわすことに汲々とする姿勢が伝わってくる。それはたぶん書き手の意図するところではない。ズーニーさんはアドバイスとして姿勢を傾ける方向だけを示唆します。アフターはこうです。


 私にとって、今、切実なのは、PHSを持つことを親に許可してほしいということだ。そんなことが切実かと疑う人さえいるかもしれない。だが、理由がある。
 私は、今まで17年間、自分の気持を表現することが苦手だった。いや、避けてきたといった方がピッタリかもしれない。やりたいこと、欲しいものを主張せず、それでいてイヤなことを断ることをしないイイ子ちゃんとしてやってきたのだ。
 最近、自分のソコが嫌だと思い始めた。今、この殻を破らなくては、本当の自分を押し殺してきた自分とサヨナラできない気がする。
 だからこそ、ワガママかもしれないという両親への申し訳なさに心を痛めながらも、自分の本当の気持ちを伝えているところだ。


解像度がぐっと上がりました。自分の現実的な切実さに端然と焦点を合わせている。比較にならないほどはっきりしています。教えてもらったことを素直に実行したのだと思う。何かを学びとろうとするときには、「素直さ」がすなわち「素質」と直結するのだとつくづく思います。

山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』は、このように鮮明な「自分のことば」への導きの書です。言い換えれば、対社会的な「Yes/No」の世界への導きなのだと感じます。社会と自分を接続するための、煮え切らない腹の中にメスを入れる本。


 あなたが文章を書くということは、あなたが納得いくまで自由にものを考えてよいということだ。決められた1つの正解がよそに存在するのではない。常識や模範解答のようなものがあるなら、むしろ、打ち壊していくところに、他ならぬあなたが考える意味がある。自分が頼りにしてきた参考書だって、いったん否定してみたら?p.40


ほんとうにそう思う。

だからまんまと挑発に乗って、ちょっとだけ、ビフォーを擁護してみたいのです。「Yes/No」で成り立つ鮮明な社会では息がつづかない、灰色の自分を擁護したい。以下は多分に心情的な感想であり、文章術を語る本の主旨とは逸れることをまずお断りしておきます。

ビフォーの文章において書き手はとても不自由です。その場しのぎにふわふわとして「あなた」がどこにいるのかわからない。ことばが自分に直撃しないよう、避けている。そのぶん読み手は想像力を働かせて後景にひそむ「あなた」の腹を探ります。読み手に労を預けるかたちになる。

一方でアフターは地に足がついています。方向性を強く打ち出して、読み手は応援したくなる。みずからの現在地から踏みこめる、ぴったりと機能的な対応関係を探り当てたのだと思います。書き手とことばとの距離が近くなっている。

要するにビフォーは「あなた」の見えない文章であり、アフターは「あなた」の見える文章です。そしてどうもわたしは、後景にかくれる「あなた」を捨て置けません。そこにある微量の怯えを否定したくない。「いなくてもいい」とさえ思う。やさしさではない。「成長しないで」と他人の足をひっぱる、底意地の悪い感情がいちばんにあります。

ビフォーは主語の「私」と私の現在時とが乖離している。ことばの運動が自分の時間と離れたところで空転する。どこでもない、どこかで聞いた理由の煙幕がたちこめる淀みの時間。だれもいない。静的で、具体的な動意が兆さない。かくれんぼみたいに、鬼に見つからないよう息をひそめている。そのままずっと、見つからないで、逃げ切ってください。そんな気持ちがわたしにはある。

『伝わる・揺さぶる!文章を書く』は、いってみれば逃げもかくれもしないための文章読本でした。山田ズーニーさんはかくれんぼの比喩でいえば鬼です。高校生の彼女はかくれているところを鬼に見つかり、矢面に立つよう導かれます。それはそれで大いにすばらしい。しかし胸裏には、いかんともしがたい引っかかりが残る。

どうやら、わたしの肺腑に淀む心境は真逆を志向していたようです。逃げたい、かくれたい。それも、できるだけ遠くへ逃げたいし、できるだけ透明に、静かに、じっと身をかくしていたい。探られても探られてもそこにはいない。そのためのことばを追いかけたい。自分なんか、いるんだかいないんだかわかんなくなるほど遠くへいきたい。

「本の主旨とは逸れる」と断りましたが、これが「他ならぬあなたが考える意味」だとするならば、逸れることなく主旨を打ち返しているのかもしれません。社会的ではない、伝わらない、置いていかれて忘れ去られ消え入る自分のための、あるいは死者への手向け、そんなようなものを求めています。

たぶん山田ズーニーさんの教えは、問いを重ねて揺らぎながらも自己の確からしさへと向かうためにある。自分なりの必然性へ向かうことを説く。わたしの望みは〈わたし〉という主体を振り切って、もう成仏してしまいたい。そのために問い、揺らぐ。「私は私」というトートロジーを超えた、あることもないこともできる偶然の時間に霧散したい。


 目の前の何気ない事物を、あることもないこともできた偶然として発見するとき、人は驚きとともに「ありがたい」と感じる。「いま(present)」が、あるがままで「贈り物(present)」だと実感するのは、このような瞬間である。


森田真生『数学の贈り物』(ミシマ社)p.3より。九鬼周造は「偶然性において、存在は無に直面している」という。それを受けて森田さんは「そうであったことのすべては、そうでなかったこともできたはずだ」という。ビフォーの文章にも、アフターの文章にもそうでない彼女がかくれている。どんな文章の背後にも書き留められなかった、無に飲まれたことばがかならずある。

その意味で文章は忘却の一形式でしかない。書かれたこと以外は忘れる。それでいい。書かれたことも、やがて忘れてしまう。しかしいま、これを書いている。なんでか知らない。その偶然に驚く。おそらく自分以外の誰かが読む。そんな信じがたい偶然にも、飽くことなく驚きつづけるのだろう。

世界はかくれている。すんなり納得いかないからこそ驚きがある。納得いくまで自由に考えたいけれど、納得いってしまえば驚きもなくなる。腑に落ちない不自由に苛まれ、永遠にじたばたする。世紀末を過ぎてもなお。成仏しきれない地縛霊みたいです。ありがとう。感謝したい気が不意に湧く。なぜか。そうでなかったこともできたはずなのに。自由とは、ひとつしか選べない不自由を拠り所とするものだった。

「ひとつだけ」を聴きたい。矢野顕子と忌野清志郎の。着地点を見失ったのでyoutubeを貼ってごまかします。もちろん聴かなくてもいい。シブがき隊の「NAI・NAI 16」を聴いてもいいか。どっちを貼ろうか。どうでもいいんです。

ではでは。










コメント

anna さんのコメント…
うーん。文章を書くって奥深いんですね。
私はあんまりなんも考えずに書いてました。
ちなみに最後の歌まで聞いてしまいました。(矢野顕子さん、うまいなあ。)
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしもいっしょです。なんも考えていません。浅瀬でばしゃばしゃしています。場当たり的に、肩肘張らず。それでいいし、それがいいんです。うまくまとまらないから「どこで切り上げよう」っていつもわからないし。考えるのは、書くよりも読むときです。

ひとつだけ、いい曲ですね。ほしいものはたくさんあるの。ほしいものはただひとつだけ。上のほうで「忘れてもよい」と書いて、さいごに「忘れないでいてほしい」と歌っているの。おかしいですね。