スキップしてメイン コンテンツに移動

日記695



 読書にも古来さまざまの流儀があるようだ。中世ヨーロッパの修道院では、修道士たちが聖なる書物を繰り返し読んではひたすら暗唱に努めていた。ゴルツェのヨハネス(九七六年以降没)が詩編を唱えるそのつぶやきは、蜜蜂の羽音に似ていたという。その蜜蜂も花々から採取した貴重な蜜を、人が言葉を書きしるした紙のように、薄くやわらかだが丈夫な房室に蓄えるいとなみに余念がなかった。蜜蜂は人間よりはるかに早く、蜜の容器となる独自の紙を人知れず作りつづけてきた。人がもし蜜蜂の英知を学んでいたら、紙という偉大な発明をもっと早くになしとげていたかもしれない。p.7


鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟 または読書の変容』(白水社)冒頭より。詩を読む声が、蜜蜂の羽音に似ていたというお話。ポエティックな比喩として読むと、静けさの中で声音がわずかに空気をふるわせるような感覚だろうか。一方で、現実の蜜蜂の羽音はうるさく耳に障るものだといかんせん詩情とはかけ離れた野暮ったい想像も浮かんでしまう。

耳元へブンブンくれば、こわくて身をかわすところ。おっと蜜蜂かと思って避けたらヨハネスお前か、ごめんごめん。みたいな一場面が想起される。ヨハネスはそのたびに、肩を落とす。クソッ、どうして俺の声はこんなに蜜蜂の羽音みたいなんだ!ノイジーな声帯に生まれついたことを呪い、喉をかきむしるヨハネス。そんな彼が、ひょんなことからあるノイズバンドのライブに衝撃を受け……。

……と、ヨハネスの成長物語はさておき。自分は神秘性に惹かれやすい。と同時に野暮ったく俗っぽい地平から足を離したくないとも思う。軸足は俗で野暮な場所にある。ふざけている。詩的なものを好むが、読んでも書いても詩性へと離陸しきれない気後れがある。詩人はきっと手の届かないところにいる。


「さよなら」を見つけたふたりは
この街の心臓をかたちづくる。


詩人の文月悠光さんが目の前でサインに添えてくださったことば。もし、わたしが書く側だったとしたら「なーんつってな!!プリプリ~」と三行目に記すことだろう。そして吉田戦車の漫画『ぷりぷり県』の主人公「つとむ」をうろ覚えで描いて、署名は「吉田戦車」とする。澄まし顔でサインなんかできっこない。

なんというか、「真面目さ」に耐えかねる。表情を変えたい。でも詩人は真顔で言い切る。「さよなら」を見つけたふたりは/この街の心臓をかたちづくる。以上。「プリプリ~」なんてのは、みずからの照れを隠すための保身だ。そんなことをしたくなるようなら、初めから書かない。贅言をついやさないこと。それが詩人の資質かもしれない。

わたしは内心どこかで、ちゃぶ台を返したくてむずむずしているような人間だ。しょーもない方へ裏返したい。自分と、自分を取り囲む世界をしょーもない方向へ連れていきたい。どんなに重いものも軽く。たとえばサインを求められるようなことがあっても、どうでもいい感じで「サマンサタバサ」などと書くにちがいない。と妄想する。自分の名前からも軽快に逸脱したい。

いくら請われようが素知らぬ顔で「メルセデス・ベンツ」などと書く。高田純次が「じゅん散歩」で自分の名をけっして名乗らないように。「どうもデヴィ・スカルノです」。しかし目の前にいるのは高田純次であり、それこそが高田純次の印となる。さういふものにわたしはなりたい。

詩とは、どこか気まずさを含むものだと思う。ことばの不協和音。「蜜蜂の羽音」という比喩を、ノイズと捉えてもあながち間違いではないのかもしれない。雑誌、『群像』の4月号で古井由吉が不協和音と詩について話していた。詩人の蜂飼耳との対談。


古井 (…)英語にabsurd(アブソード)という単語があるでしょう。ばかげたという意味ですね。これはラテン語ではabsurdus(アプスルドス)といって、不協和音の、という意味です。absurdusは調和を破るものですから、いやがられるものなんだけど、啓示や天恵、恍惚感といったもの、これらは不協和音を前奏としてあらわれるんですよ。

蜂飼 恍惚そのものではなく、前奏が不協和音なんですね。

古井 そう。何か日常を超えた現実があらわれるとき、その前に不協和音が呼び出しのように鳴るものなんです。ところが理性、知性が重んじられる今の世界においては、人は不協和音に耐えられない。

蜂飼 生きているということは、どこかに不協和音を含んでいると思いますけれど。

古井 こうした不協和音を書くことができるのは、詩人だけなんですよ。古典的なドラマは詩劇ですね。


この「不協和音」はたぶん「気まずさ」にも似ている。たとえばふつうに会話を交わしているとき、相手がとつぜん歌いだすようなたぐいの。え、どうしたの?となる。高田純次が「どうも舞の海です」と名乗ることも、ふつうは気まずい。どうかしている。

しかし高田純次には全国ネットでそれが許されている。彼も贅言をついやさず、別人の名を堂々と言い切る。その澄んだ狂気は詩人の態度とちかいようにも思える。KOHHの楽曲にもなるほど適当な男、JUNJI TAKATA。Fly boy 自由きまま。





躊躇のない澄みきった逸脱行為、古井由吉のことばを借りると「破綻の末に出てくるもの」。「不協和音」、あるいは「気まずさ」ということばで補助線を引けば、詩と笑いはあんがいちかいのかもしれない。これは独善的な思いつきの直感に過ぎない。しかし双方とも、獣道に自分なりの筋を通して歩くような、古くからある人間のいとなみにはちがいない。

詩も笑いも不協和音や気まずさに端緒があるとしよう。恍惚の一歩手前で生じる。ちがいはたぶん、信ずるものがあるかないか。高田純次には、ことばへの信頼を欠いた軽みがある。彼のふるまいは「そんなに信じなくてもいいんだ」と思えて、らくになる。

詩はおそらく信じなければ存在しない。笑いは信を逸らすところに存在する。と端的に、大胆に定義してみる。両者は相補的で、人間にはこの両方が必要なのではないか。わたしはわたしがここにいることを信じている。と同時に疑ってもいる。なんでここにいんの?さらに端的に、「いる/いない」という志向性のちがいにも思える。


詩はホロコーストを生き延びた
核戦争も生き延びるだろう
だが人間はどうか

真新しい廃墟で
生き残った猫がにゃあと鳴く
詩は苦笑い

活字もフォントも溶解して
人声も絶えた
世界は誰の思い出?


谷川俊太郎の「苦笑い」という詩。死なないほうの「し」が詩だった。死よりも長い射程、それは信仰と隣接する。あるいは信心そのものか。永遠の上に浮かべる舗石のようなことばが詩か。詩が何かを信じたいがためにあるものなら、笑いは信じまいとするためのものだろう。俗人はそのあいだでうろうろしている。

信じない者に向かって放たれる現実が詩で、だから詩人は不信との距離をつねに測る。笑いは逆に信じる者へ冷や水を浴びせる。人々の共通了解との距離を測って繰り出される。常識の軌道を逸らすこと。この半信と半疑の渦にかきまわされてきた結果が現在のわたしをかたちづくっている。

「ポエジーと認識は、けっして別のものではない」と図書館で読んだ持田季未子の『美的判断力考』(未知谷)にあった。ベンヤミンについての数頁。「エッセイの理想は、詩的なものの力で現実を通りぬけて新しい認識を示すことだとすれば、さしずめベンヤミンの作品はその模範といえるだろう」という一文から始まる。

ポエジーは幻想のひとつだと思うけれど「幻想に過ぎない」のではない。その人のもつ幻想がその人の現実をつくる。貧しい幻想しか持たない人間は、貧しい現実を生きている。どんなに幻想的な詩情もフィクションも現実を補完する認識のひとつだ。

高田純次が別人の名を名乗ることは、認識のアウトソーシングとも言えそう。自分が信じなくとも、他の誰かが「高田純次」を信じている。その誰かに「高田純次」を任せておけるため本人は適当に「どうも西田敏行です」と発言できる。冷や水というより、他者に背中をあずけて委託するような身の処し方なのだ。と気がついた。

詩は自己の信と対峙する態度からつくられ、笑いは他者の信と対峙する態度から発想が起こる、の、か、もしれない。「かもしれない」のたぐいを書きすぎているかもしれない。その場の思いつきで適当に書き飛ばしているせいだ。右往左往して。


 小学三年の八割はサンタクロースの存在を信じ、五年の八割は信じていないそうだ。四年生はその境目の悲しい年齢だという。
 思うに人生は、夢や幻想が覚めてゆく過程だといっていい。
 親は子に対して、子は親に対して、夫は妻に対して、妻は夫に対して。
 税金を払うときは国家に対して、死床にあるときは医者に対して。
 そして、自分は自分に対して。
 それでも大半の人間はふしぎに絶望しない。


山田風太郎『あと千回の晩飯』(朝日文庫)より。大半の人間は小学四年生にとどまるからだろう。そこそこ信じて、そこそこ疑っている。そこそこ期待して、そこそこ諦めている。悲しいけれど、ふしぎに絶望しない理由。どうやっても疑い得ない真実ほど、絶望的なものはないから。




長い長い時間の堆積からそっと抉出されたような文章は、読んでいると居心地がよく思います。息をつける。『記憶の箱舟 または読書の変容』は、そんな本です。まだ途中までしか読んでいないけれど。なんだか初っ端から書きたいことが逸れてしまった。思うようにいかない。高田純次のことを書く気なんて1㍈もなかったのに。

書物とはそもそも、遠く悠かな時間の一部としてある。幽玄たる時の間隙に手を巻き込まれてものされた、ことばの群れだと思う。たったひとりで幾層もの記憶の孤峰を手繰り、並べられた文字の連なりはきっと、形式とは関係なく詩に接近できる。小説でもエッセイでも論文でも、そんな瞬間まで連れ出してくれる書物を欲している。それが自分の望む最大級の贅沢。古いふるい記憶の手引きを受けるように、いつまでも本に触れていたいと思う。とかたぶん、そういうことを書きたかった。



コメント

anna さんのコメント…
私は、こんなに深く考えて詩的な文章を読んだことはなくて、心にひっかかる文章や表現はないかなあ程度の読み方です。今回の話しの中では、「思うに人生は、夢や幻想が覚めてゆく過程だといっていい。・・・それでも大半の人間はふしぎに絶望しない。」ってのがなんかいいなあと思いました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうそう、わたしも「なんかいいなあ」をつなげて書いています。そしてこんなに高田純次のふるまいについて考えたのは初めてです。ジャンルに関係なく、自分の感覚にひっかかりをもたらすものはすべてつながるのだと思います。真逆に思えるものだとしても一個に収斂する。「ふしぎに絶望しない」その理由のいまひとつは、夢に向かって目覚めるからです。覚めた瞬間にべつの夢が始まる。終わりまでその繰り返しです。